延原時行歌集「命輝く」(第3024回)(再びサボテン、そしてビワとゴブ)

 延原時行歌集「命輝く」(第3024回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

○(2日)滝沢純粋神人論反省の歌(五)教会外神認識論十首
    (* 鳥飼先生 6/1, 2018 22:32)

一 正しくや「深き低み」の底なるや仏教にてや「真如海」とす

二 かつて見し星野元豊切り込みぬ原事実の底空なるぞやと  (備考:星野氏滝沢の『著作集7』に収めたる『仏教とキリスト教』(京都・法蔵館、昭和48年刊、460-461頁、参照)の「解説」中で単純なる原事実論を破り、その底に「総てを包む」「絶対無」「絶対空」とも言ふべき真如海をもう一つ根柢において指摘なしたり。これ画期的なる業績なり。神人の第一義の接触を「①自分自身の処にも、②そのままに現在する永遠の事実としても」認めつつ、第二義の接触はこの場合、「救済の行としてのイエス」あるいは機法一体[仏凡一体]を考える、と言ふ)

三 これ恩師心広くも記したる「教会外の神認識」ぞ  (備考:「この道の上で彼は福音書そのものにおいて、全体を正しく理解するために不可欠な箇所を多数見出すであろうし、それらの箇所はそれにもかかわらず「イエス・キリストの教会の絶対的権威」の故に、以前には完全に無視されたか、あるいはあまりにも軽がるしく取りあつかわれた、ということを見出すであろう。同時にまた他方では、彼は教会の壁の外において、単に根底無き、暗い淵を見るのではなく、何よりも先ず唯一で真実な、絶対に厳しい、無条件に開かれた、汲みつくしがたく実り多い、インマヌエルなる神の空間をみるであろう。その時彼はまた、他の宗教や哲学においても、唯一で普遍的なインマヌエルなる神の力によって、この世界において非常に異質で隔たっているにもかかわらず、真にキリスト教的な言葉と直接に美しく共鳴し合う言葉を、無心に期待するということをどうして止めることができようか。カール・バルト自身もその晩年においてのみならず、根本的にはすでにわたしがお会いした初期の時代にそうしたのであった。」(『純粋神人学序説』274-275頁)、参照)

四 我見るやこの認識やさらにぞや基教内部の認識刷新

五 げにや我「天にまします御父」ぞ「真如海にてます御父」と呼ぶ  (備考:これ、「天」=「空」=「真如海」=「神性」なるのであって、「天にまします我らの父よ」とは、形而上学的究極者に至誠なる御父への、呼びかけを意味すなり。その意味では、先に論じたる、「深き低み」の底ぞ飛翔す、の含蓄と同様なり)

六 かく呼びつ「至誠心のぞ神学」を提言せしや不肖我なり
  (備考:何度も紹介せし如く、この提言や、第一原理「空に神至誠なり」;第二原理「空は空自らを空ず」;第三原理「宇宙において神は被造者に至誠心を喚起なすことが出来、現に喚起なし給ふ唯一の御方なり」を含み、第一原理「空神至誠」は第三原理「神至誠喚ぶ」と逆理を構成なすなり。その事、恩師我への「書簡」にて承認し給へり)

七 最晩年御書簡ありて答へます恩師御慈愛心より謝す

八 空に神至誠捧ぐや神至誠喚ぶや尊し逆理深甚

九 宇宙にぞ逆理深甚空自空最奥にして先端なるや

十 それをしも「原受肉」のぞ動態と我述べんかな哲悦の果て  (備考:「神共」ロゴスから発し「太初」に孕む「原受肉」や空即縁起のはたらきあるも、遂に「原事実の新現在の産み出し」ありて哲悦や咲く。それ、ホ氏言ふところの「参与」《Partaking》 即ち「受肉結実」なり。その歓喜、哲悦と呼ぶなり。嬉し嬉しや)

昨日もご近所のお宅のサボテン鑑賞。サボテンの花は一日だけのものと思っていましたが、昨日のサボテンの花は前日に咲いた花だそうです。御主人のお話では、サボテンは天気の良い日は一日で散り、雨模様の日には二日間咲いているのだそうです。したがって、この花は二日目のものでした。二日目でも見事なものです!

公園では、まだアゲハチョウが舞っていました。

昨日も住宅のビワとご近所のお宅のゴブをいただいて・・・

次は、中庭の猫ちゃん・・・

終りに、アジサイの花など・・・