延原時行歌集「命輝く」(第3021回)(久しぶりに名古屋へ)

 延原時行歌集「命輝く」(第3021回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

27日から29日まで名古屋に出掛けていてブログUPをお休みしましたので、先生から届いたメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」と共にまとめて収めさせていただきます。

○(28日)ロゴスとロゴスの歌(四)原受肉論十首
     (* 鳥飼先生 5/27, 2018 15:25)

一 汝らの父至誠なる如くにや汝らも至誠なれやとイエス宣ふ  (備考:『マタイ』5・48、私訳なり。我が持論はや、聖書聖句に形而上学成句なるもの多し。これ、その代表的一例なり。その含意たるや、「汝らの在天の父が全き」が如く、即ち、父の「在天」の存在に至誠なる如く、なり。我が解釈では、「在天の存在」=「三位一体的場所に在る存在」なり。そこで初めて、「かかる場所存在」に至誠、といふ尊厳態が問題にされていることが了解さるるなり。さう解さざれば、何が問題とされているかが皆目明らめられず)

二 汝らの父「天=空」に至誠なりその如く汝地に至誠たれ  (備考:前半は、存在論的記述なり。後半は、(先の「存在論的記述」を含んだ上で)地の住人=受肉者としての自覚論的叙述なり)

三 至誠はや空に神のや在り方Seinsweiseぞもしさうならばロゴス深しや

四 深しとや「神共」ロゴス両極の父子の位置こそ含めてやそも

五 かくてぞや「神共」ロゴス恩師言ふ「太初」内住深くや深し

六 「神共」や神の内部の「原受肉」「太初」に孕むロゴス神人
  (備考:我々は「神・言=原受肉」→「太初=神・人=内住」の根本的プロセスに注目せねばならぬ。これに続きて展開するや「原事実の新現在の産み出し」なり。而してそこに咲くもの哲悦なり)

七 「原事実新現在の産み出し」にほのと咲くぞや哲悦嬉し

八 されどもや一人遊びの出来ぬ人他者の思想に依るほかぞなき  (備考:他者の思想に依存乃至はそれを盗用なす場合、これ内面的束縛なり、外面的に非ず。さういふ人は、そもそも未だ哲悦心に咲かざる存在なり)

九 これ誠米朝会談途絶せし真の理由もそこに存すや
  (備考:【ワシントン共同】《トランプ米大統領は25日、金正恩朝鮮労働党委員長に中止を通告した米朝首脳会談について北朝鮮と「生産的な協議」を続けているとして「もし実現すれば(当初の予定と)同じ6月12日にシンガポールで開くことになりそうだ」とツイッターで表明した。1日で終わらない可能性もあるとしている。米メディアは途絶えていた米朝の連絡チャンネルが再会されたと報道。会談の再設定へ歩み寄る兆候が出てきた。
 トランプ氏は24日、北朝鮮の敵対的な言動を理由に首脳会談の中止を発表したばかり。しかし25日になって北朝鮮との協議を続けていることを明らかにした。北朝鮮が会談を「切実に必要」とする談話を出したことや、再会された接触などを通じた北朝鮮の反応を見て、会談の再検討に前向きになったとみられる。
 しかし「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」を北朝鮮が受け入れるかは予断を許さない。米朝間の不信感は根強く、会談実現には米朝間の信頼醸成も課題となる。
 米メディアのよると、サンダース大統領報道官は25日「首脳会談を6月12日に開くなら、われわれは準備できる」と記者団に語り「大統領は結果を出せるなら会談を開きたいと思っている」と説明。米側が求める完全な非核化の実現が条件との認識を強調した》『新潟日報』2018年5月27日付)

十 人がぞや哲悦抱く幸せや地に至誠たる極みその事

IXIA!
延原時行

○(29日)滝沢純粋神人学反省の歌(一)御友論十二首
     (* 鳥飼先生 5/28, 2018 16:05)

一 恩師のや独自思想や「神人学」イエス束縛要らぬと窮む
  (備考:滝沢克己『純粋神人学序説』(福岡・創言社、1988年)272頁)

二 これありて初めて「太初ロゴス」にぞ《向かふ》と言ふや内面の吐露  (備考:而してや「神表現」の大思想明むや。同、272-273頁、参照。「それに対して、純粋な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されはしない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルトと共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分‣不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。全く逆である。神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである。
 純粋に神人学的に考える人間は、したがって、自分自身を一つの存在者として知っている。この存在者は一方では、絶対的に偶然的であり、あらゆる歴史的形態を持った規定から自由であり、他方ではしかし、何よりもまず、そのようなもろもろの規定とは比較にならないほど厳しい、唯一の神の規定、すなわち人間は、まさしくはじめから終りまで、このような偶然的な存在者として自分自身の生涯において生ける神ご自身を表現すべきであるという、唯一の神の規定の下に立っているのである。このようなものとして人間は、たとえ苛酷な歴史的状況にあっても、たえず希望に満ちている。」

三 それ程にイエスの姿束縛ぞそれのみならず道標なるも

四 我や知るイエス父より聴きし事なべて弟子にぞ伝へ「友よ」と
  (備考;『ヨハネ』15・15、熟読参照)

五 「もはや我汝ら僕呼ばざるよ」我これを御友神学呼びたるやげに

六 御友はぞ神学びをや父よりぞ致し給ふや誠尊し

七 然る故我らを「友」と呼び給ふ尊き言葉父よりの事

八 即ちや父が元々御子たるの「栄光」與ふ僕視せざる   (備考:『ヨハネ』17・5、熟読参照)

九 誠にやこの事やしも「神共」《pros ton theon》と書かれし事ぞ御友根源

十 さればこそ御友神学父子にぞや根源ありて「友よ」と出づる

十一 何故に「イエス束縛」恐れしか恩師心情我分らぬや

IXIA!
延原時行

○(30日)滝沢純粋神人学反省の歌(二)「神表現」哲悦発見論十三首
     (* 鳥飼先生 5/29, 2018 18:53)

一 恩師のや「非束縛論」じっと読むこれ誠にや無明の記なり

二 イエスにや「束縛されず」書くや汝導き謝するげに本当か

三 この点の真偽のほどや確とせる「太初」論読む心得なるや

四 「太初」論《向かふ》と書くの筆致にや認識論の苦渋ありあり

五 苦渋中汝や徐々にぞ思索すや「神人学に史的核なし」

六 汝や見る絶対偶有Kontingenz在りて産む神ご自身の「表現点」ぞ  (備考:「滝沢書簡」、『純粋神人学序説』、272頁、熟読参照)

七 これやこそ「神ご自身の表現点」「規定されたる」人間存在!

八 それで汝これ初めのや「イエス」とや何の関係そもありたるや

九 見よそこに厳然として御友神史的のや「産み出し」直前いましたるにや

十 これ正に恩師哲悦ほのと咲く喜ばしきの時なりきげに

十一 げにもぞや一人遊びにふけりたる滝沢まみゆ「神人ロゴス」

十二 それにはや「神共」ロゴス自らや発し来給ふ「太初」直々  (備考:「ただ生ける神ご自身(=「神共」)によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在(=「インマヌエルの神・人原事実」)に!)

十三 直々や一人遊びの世界なりこれ超えてぞや御友顕現  (備考:顕現とは、地上の受肉、イエスの宣教活動の事、ホワイトヘッドの言ふ「参与」《Partaking》 [Dialogues of ANW,
366]の事なり)

IXIA!
延原時行


明石公園の御濠で・・・



名古屋での「ぶらり散歩」で・・・・

名古屋で始まったといわれる「コメダ珈琲店」で・・