延原時行歌集「命輝く」(第3018回)(サボテンの花、お見事!)

 延原時行歌集「命輝く」(第3018回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

○(25日)ロゴスとロゴスの歌
     (* 鳥飼先生 5/24, 2018 22:05)

一 恩師のや直覚正に煌きぬロゴスとロゴス相補示すや

二 この事の何といふべき真実かこれを除きて真実やなし

三 我が持論「至誠心のぞ神学」や恩師「太初」のロゴスもっぱら

四 或日そも両者激突恩師はや見事に相補示されにけり  (備考:「学兄が「事実的存在(者)もロゴスも絶対無に忠誠である」といはれる時の「ロゴス」は、せいぜい、存在者に(理論的にはそれの一切の表現形態に先立って*)*=仰せの「物に存在論的と価値論的と二つの次元の忠誠がある、前者にまた二様の様態がある、といふことも、私がここに云ったことに含まれて来ることでせう= 無条件に直属する根源的・普遍的本質規定であって、私のいふ「ロゴス」ではありません。私のいふ「太初の言」は、一々の存在者と共に在る限りの神性そのものーーつまり、神学の用語だと永遠の父と全く等しい永遠の御子、浄土真宗でいふと、(キリスト教神学同様真宗にもふつうの伝統的宗学にもふつうの伝統的な宗学ではどうにもならぬ微妙な問題がありますけれども)法性法身と全く同一の久遠実成阿弥陀仏――です。延原さんの「ロゴス」といふのは、物の事実存在と(相補的に)共在する根源的普遍的・本質規定(こういふものとしてそれは「忠誠を促すもの」です)のことです」のことでせう。それならばむろんそれは、「事実存在より“前”ではなく」それと「共に」神性において在るものです。/ 人間をはじめこの世界の内部に現はれる「価値」の問題、「信」が「覚」かといふやうなことも――たとえば信も、それ自身同様に有限の物の法性法身=「神性」における絶対被決定Kontingenzへの覚醒でなくては、真正の信とは云えない――ここをしかと踏まへれば、すべて第二次的・第二義的なこととして自然に明らかになりませう」(『純粋神人学序説』159頁)
 (つづく)
IXIA!
延原時行 


ご近所のお宅のサボテンの花を眺めるのが日課となっていますが、二日間咲かなかった花が、期待通り昨日は、今年最高の見事な花を咲かせていました。御主人も大満足でした。一日だけ咲いて散る花ですね。御主人からいただいた我が家のサボテンはまだまだ咲く気配はありません。

昨夜は久しぶりに徳島から友人の来訪を受け、遅くまで愉快な語らいを・・狭い我が家に泊って頂き、今日は好天気ですので、ロープウエイに乗ってハーブ園に出掛けてみようかと・・・

次の写真は、昨日の住宅の花壇です。