延原時行歌集「命輝く」(第3017回)(花壇のアマリリスと薔薇とアジサイ)

 延原時行歌集「命輝く」(第3017回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

○(24日)滝沢哲悦謝するの歌七首
     (* 鳥飼先生 5/23, 2018 15:19)

一 哲悦ぞ一人遊びの歓喜なり恩師これをぞ「自己存在の」と

二 此処のぞや文面全部映したし懐かしきこそ「見窮め」の語ぞ
  (備考:「どうも学兄が見てそこの区別・関係・順序を明らかに云ひ表はさうとして居られること、厳密に学問的であらうとなさるその御苦心はよく分かりますが、私自身も仰せの諸面を切り棄てて云ってゐるのではない、ただそのやうな諸面は自己存在の事実そのものに堅くとどまることで、ほんのもう一歩よく見窮めやうとしてゐるだけであるやうに思われるのです」《滝沢書簡:1983年7月1日付》拙著『平安あって平和なる』(新潟・考古堂、2017年)159-160頁、参照)

三 恩師のや「不可逆的」の一語はや我が「忠誠」に相応なりと  (備考:「(八木氏の場合は、その肝心要の一点がまだよく見えてゐないのではないか、さうでなければ(滝沢は初めから終はりまで区別だ、人格的に不可逆の一点に偏してゐるなどといふ批判が出るはずがない、と思はれるのです)(又氏では、延原さんのいふ第一次の忠誠、その二重の構造も十分明らかではないやうです。純粋直観の事において思惟が絶えて、新しく生まれる、といってもその思惟の存在論的必然性が身に沁みて来ない、どこか主観的な構造になって行っている感じです)」(同160頁)

四 空に神至誠なればや翻り神人に至誠喚起し給ふ  (備考:「空神至誠」「神人至誠喚起」の間には逆理あるなり)

五 空神人存在論的至誠あり神それ自覚我ら不覚も
  (備考:空=神性に、神も[人を含む]万物も、有無を言はせず存在論的に至誠なり。これ第一次的至誠なり。次に、神のみ、この第一次的至誠を「自覚」なさるなり。神のみ、存在論的存在に、有無を言わせず存在論的に至誠なる在り方とその存在論的至誠心を「自覚」なさる、自覚論的在り方が含まれるなり。その意味で神の在り方Seinsweiseは、二重なり。さうでなければ、万物の創造やなし。この延原理論、恩師御理解いただきたり。何たる感恩ぞ!)

六 神人や不可分なるも神自覚人無自覚ぞかくて不可同  (備考:この不可同論、恩師詳しい御論評なし。なお、神人不可分の「不可分」我「空性」と取るなり。これ我のユニーク論なり。)

七 されど神不可同なるも不可同の人愛するや不可逆的に
  (備考:この神人不可逆論、恩師詳しい御論評なし。この論、したがって、我がユニーク論なり)

IXIA!
延原時行


昨日の花壇のアマリリスと薔薇とアジサイ

ご近所のお宅のサボテンの花を見届けるのが、この頃の楽しみの一つですが、この二日間、なかなか花を開いてくれません。

ぶらり散歩をしていると、どのお宅も、薔薇たちがいま、いちばん美しく咲いています。

広場に咲く黄色い花・・・これは何という花?