延原時行歌集「命輝く」(第2875回)(柘榴と猫と花たち)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2875回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    9月11日

           我が仕事の歌十二首

 一 我が仕事英文にてや東西のプロセス神学出合ひ書くこと

 二 それもぞや基督論と仏基のや対話而して神エコゾイクス
   (備考:英文大著これなり:Christology, Buddhist-Christian Dialogue, and Divine Ecozoics: Three Theological Adventures in Process Perspective)

 三 かく思ひ第二章を今日も我推敲誠励みおるなり
   (備考:Ch. 2: “Katsumi Takizawa’s Approach toward a World Theology From a Process Perspective,” Union Seminary Quarterly Review, 41/3 & 4 1987, 39-54.)

 四 この稿や恩師一生御尽力跡付けつつや我顕彰す

 五 幸ひに独出版社我が英書好みて出版オファー嬉しや

 六 昨日も編集者よりメールあり第十三章送りしに謝辞
   (備考:Ch. 13: ”The Proto-factum Immanuel by Takizawa, My New Idea of the Proto-incarnation, and Whitehead's Notion of God As Being 'in’ the World: Within the Context of Divine Ecozoics toward a Theology of the Great Friend.”)

 七 我の住む境界誠地球のや学問道場日ノ本ぞ越ゆ

 八 かかる場所恵みの神や賜ひしを誠摂理と謝するや深し

 九 昨日や一日仕事なせし後我寛ぎて「政ちゃん」にゆく
   (備考:イオンモール内の老舗とんかつ店なり、美味なり)

 十 何故かしら哲学神学我書けば地球の友や喜びたまふ
   (備考:我英語の世界の良友地球に数多あり何故か相性甚だ佳し)

 十一 この夏やアゾレス大学(Portugal)学会で「原受肉」をば我講ず
   (備考:これ、神学の新学説なり。神学普通、「受肉論」中心なり――カール・バルト「和解論」の如し。これ、然れども、私見によれば、重大欠陥あり。受肉の深層なる「原受肉」を論ぜざる故なり。恩師滝沢、これを突破すべく、「インマヌエルの原事実」論ぜり。されど、「原事実」がインマヌエルなるは、『ヨハネ』1・1.第二項にある「神と共なるロゴス」の内住(indwelling)に依るなり。内住、西田の言ふ「絶対矛盾の自己同一」の論理の穿つ真理なり。これ「神共」ロゴスの「太初」中の原受肉のことわりなり。「神共」ロゴスの内住なくば、「太初」ロゴス(滝沢の言ふ「原事実」)に救いの根源、即ち「インマヌエル」(神我らと共にいます)あるなし。インマヌエルは、元々「神と共にロゴスあり」なる超越界の真理なり。この真理が「太初」の「世界の根源」内に原受肉、内在さるることなくば、そもそも「世界内の我々と御神がインマヌエルなさること」在り得べきことなし。インマヌエルの言語、天界にあるも、世界に内在するためには、「太初」「原事実」への原受肉絶対に必要なり。それなくば、「ロゴスと神共、すなわち《インマヌエル》」なり給ふも、「神《我らと》共、インマヌエル」なり給ふとは、言ひ得ざるなり。これを、インマヌエル言語の、転移と我名付けるなり。普通、インマヌエル言語の天界から世界への「転移」を語らず、意識せずに、滝沢をはじめ世の人々は、「神我らと共にいます」と唱え居るなり。此処に我の言ふ「原受肉」なくば、「インマヌエルの転移」あるなし。「原受肉」は、受肉の前提にして深みなり。これなくば、受肉イエス・キリストの真理)あるなし。カール・バルトの言ふ「和解論」成立せず。従って、我の言ふ「原受肉」は、「受肉」成立のための、秘儀、前提、深みなり。「原受肉」の真理をイエスは、父から聴かれたり(『ヨハネ』15・15)。ここに、初めて、「受肉」の次元(即ち「原受肉」の父よりの聴聞=御友神学)明示されたるなり。而して彼この事実を我ら(弟子たち)に伝へたる故に「友よ」と呼び掛け、もはや「汝らは僕、従僕に非ず」と宣言し給ふ故に、御友神学確立せり。御友神学とは、御友なるイエスが父から「原受肉」の真理(=「神の国」:『マルコ』1・14-15)を学び給ふ神学び、の事なり。これを「最初の神学」と言ふなり。神学専門家の神学、これ従って「第二次の神学」に他ならず。勝義の神学とは、イエスの御友神学なり)

 十二 何にせよ『神学冒険』これこそや我が大著なり諸処で構ぜむ
   (備考:我が英文大著Three Theological Adventures in Process Perspectiveたるや、「原受肉」を根幹として神学の一切を論じる故、神学冒険、神学刷新なり。今夏、オクスフォードからまたまた(2013年に引き続いて)招待ありしが、今夏はUniversity of Azoresに先約ありし故、またの機会とせり)





昨日の日曜日もいい一日でした。延原先生からは、上の歌と共にお電話で歌の分かりやすい解き明かしをしていただきました。

先日来、このブログのUPに加えて、フェイスブックの広がりもあって、予期しなかった交流と学びが進んでいます。思いがけない経験です。ゆっくりと、知友にお便りを認めて見たり、御電話をしてみたり・・・御贈りいただいた御本を読んだり、蔵書を取り出して読み返したりして・・・

本日も「柘榴と猫と花たち」と美しい夕焼け―ー須磨アルプスなど―ーを並べます。

もう今年は終わりかな、と思っていましたら、サボテンの花がもう一輪咲いてくれそうです。