延原時行歌集「命輝く」(第2797回)(ぶらり「賀川記念館」へ)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2797回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    6月23日

           御友麗しの歌八首

 一 朝夢に圧倒的や御友愛感じつ目覚む今日の我かな

 二 恩師はやイエスの縛り嫌ひたり原受肉承く御友我ほむ

 三 父よりぞ原受肉のぞなべて聴き御友「友よ」と告知麗し
   (備考:『ヨハネ』15・15、熟読参照。我に取りては、この聖句新約聖書の解釈原理なり。原受肉の父を介しての御友神学への伝承明示したる処が示唆的なり)

 四 もはや我原事実にぞ溢る愛受けてぞ呼ばず汝「僕とは」
   (備考:「溢る愛」=原受肉。御友メッセージを我詠へり)

 五 溢る愛「神の国」とぞ御友告ぐ先ず求むべき宝ぞこれぞ
   (備考:『マルコ』1・14-15=『マタイ』6・25−34=『ルカ』15・6-10、熟読参照:「神の国」「野の花を装う神の愛」「隠されたる宝発見の喜び」「放蕩息子の帰還の喜び」、これ皆「原受肉」の福音をイエス・メッセージの基底にせずして、理解し難し。これ今日の大発見なり)

 六 イエスのや宣教これぞひとえにや原受肉のぞ響きなりけり

 七 恩師はやイエスの縛り原事実対比なしてや後者に「向かふ」
   (備考:「(A)それに対して、《純粋》な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されはしない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルトと共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分・不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。(B)したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。全く逆である。神人学が①あの絶対的に偶然的な、②ただ生ける神ご自身によって③神ご自身の自由な表現点として④規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである。」滝沢克己『純粋神人学序説』福岡・創言社、1988年、272頁、参照。
(A)=イエスから「インマヌエルの原事実」に向かう滝沢神人学の基本方向。(B)=神人学の本来の内容:①+④=原事実;②+③+④、=我の言ふ「インマヌエル(「神共のロゴス」(pros ton theon)in:『ヨハネ』1・1・第二項)の「太初のロゴス・原事実」における「原受肉」、と分析可能なり。ただし、(A)(B)の内容がもしも真実ならば、「インマヌエルの原事実」に向かふのは、最も真剣な意味では、「神共のロゴス」の「原事実」における「原受肉」の動態にして、此処に「神の国の到来」メッセージが秘められたるなり。もしも然りとするならば、この「到来」はイエスのメッセージの基本内容なり。それに「束縛されない」とは言へまい。それに聴従成す事こそ御友の友としての正当なる任務なるべし。かかる認識は、滝沢の「原事実」中心主義には見られず)

 八 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば
   (備考:御友への聴従のいときよらなる姿、切れ目なき笑みなり)





昨日も奇麗な夕暮れでした。

夕食の後に、ぶらり散歩に出掛けました。

昨日午後は、久しぶりに賀川記念館へ図書資料探しに・・・・

9月3日開催の記念館における賀川豊彦学会のお話し(「賀川豊彦と神戸」)の準備で・・・・

そこで予期せぬ資料ーー「賀川豊彦;神戸市教育委員会会議録(1956〜1958)」−−を見つけて、関連図書3冊と共にお借りしてきました。

賀川は最晩年、神戸市の要請を受けて「教育委員」を引き受けて、東京より多忙の中を委員会に欠かさず出席・・・長田公民館や図書館の長田分館の設置などについて熱心に発言している貴重な記録です。