延原時行歌集「命輝く」(第2796回)(花々と鳥たちと)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2796回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    6月22日

          香気溢るやの歌十二首

 一 青春の只中にてや恩師より原事実そも学びたる我
   (備考:かくて1960年初期より1984年まで延々と続けし恩師との往復書簡実に無数なり。一通その内最も重要なる滝沢書簡(1983年7月1日夕付)此度の拙著『平安ありて平和なる ホワイトヘッドの平和論、西田哲学、わが短歌神学日記』、156-161頁、参照)

 二 此度我深く反省その裏に原受肉をぞ徹見せしや
   (備考:毎日楽しみにせる読者の人方あるも、大抵はわが短歌神学日記など、やり過ごす友方一般なり。何しろ「歌心」など、人方一般にあるや、と問はば、さて。然るが故に、大切なるは、人方などは一切あてにせぬ事。ここに「我深く反省」こそ肝要なり。人方など一切あてにせぬ事、これ最も肝要なり。歌心皆目や無き人方に歌読めといふ理不尽ぞげに。それだけに我が歌読みて快哉を挙げたまふ御方、げに至宝なり:ことに禅の西村恵信先生の御書簡3月30日付、何度か引用せるも、格別なり:「昨日、ご近著『平安ありて平和なる』を拝受しました。益々信仰心を深め、その詩的表現を磨き上げられていくプロセスに敬服させられるばかりです。本書の如き延原先生でなくてはあり得ない東西に亘る現代の信仰告白であり類書の追随を許すことはあり得ぬ稀書と信じます。奥様の微笑が見えるようです。小生も多くの著書を書きましたが、もう往年の気迫がありません。御礼までに」 このうち〈奥様の微笑が見えるようです〉にいちばん感謝いたして居ります。いのちとは変貌有りていのちなり今生超ゆる笑みありてこそ)

 三 恩師そも原事実をば太初のぞロゴス依拠して考察や成す

 四 ぞの性(さが)や偶有とぞや指摘さる原事実こそイマヌエルとぞ

 五 何故如何にこの断定や可能かや一般概念言ふ術や無し

 六 神と人一なるべしと同定す絶対矛盾自己同一ぞ

 七 ホ氏もぞや此処に形相介在や絶対なしと言ひし麗し
   (備考:See the following dictum: “The definiteness of fact is due to its forms, but the individual fact is a creature, and creativity is the ultimate behind all forms, inescapable by forms, and conditioned by its creature.” [PR, 20]此処など西田の「絶対矛盾的自己同一」のホワイトヘッド版なり。滝沢が、「インマヌエルの原事実」で以て言はんとせしや、まずは是なり)

 八 この事情「神共ロゴス」見ればこそ「太初」に元や受肉の真理
   (備考:「神共ロゴス」(『ヨハネ』1・1・第二項)見ざれば、「太初」への原受肉の真理の面白さ、所詮無し。恩師は、「太初のロゴス」しか見ざる人なる故、この面白さなし。従ひて、その論理ただ峻厳なるのみ。例へば、何故かくも峻厳に「イエスの縛り」を「原事実」の立場からバルトめがけて難詰せしや? これではキリスト教の救済論に真っ向から対立せしに非ずや?「洗礼」の真理性を自ら否定する趣ならずや? 困った人なり)

 九 そもそもや「インマヌエル」や〈神内の〉関係なるや「太初」に受肉
   (備考:神内(inter-Trinitarian)こそや「原受肉」の〈原〉の含意なり。恩師は常に、「神人」(The-anthropology)を問題となすも、彼には「神神」(inter-Trinitarian)問題への敏感さ無し。それ故にこそ、ロゴスを問題になすに、「太初のロゴス」(『ヨハネ』1・1・第一項)にしか注目せず、それで以てヨハネ的ロゴス論を尽くせるとなせるなり。「神共のロゴス」(同第二項)に一切言及せずにロゴス論尽くせるとなすや、誠暴論に非ずや。「インマヌエル」を先ず「神共ロゴス」(pros ton theon)の含意としてまず了解なす故にこそ、これが「太初」の中に内在成すといふ冒険を、我の如く、「原受肉」と呼ぶことあり得るなり。この場合、〈原〉とは〈神内部〉との意味なり。「原受肉」の意味や、〈神内部に於いて「神共」から「太初」への受肉あり〉との事なり。まず、かかる意味にて〈神内部〉にて「原受肉」なくば、〈神と世界の間〉に於いて「受肉」(我が言葉にてや、御友神学)前者を受容しつつ生起すること考え得ざるなり)

 十 同様の観点ホ氏の「原初神」空の本覚一切と「共」(“with”)
   (備考:See the following dictum: “Viewed as primordial, he (i.e., the Primordial Nature of God) is ①the unlimited conceptual realization of ②the absolute wealth of potentiality. In this aspect, he is not ‘before’ all creation, but ‘with’ all creation.” [PR. 343] ①を我、仏教論的に、「空」、②を「本覚」と取るなり。然るが故に、一切創造界との間は、「前」(before)にや非ず、「共」(with)なり。何故ならば、創造を一回限りの事実と見ない限り、〈神内部〉の出来事なる故なり――即ち、「神共ロゴス」の「太初のロゴス」への内在、我の言ふ「原受肉」のプロセス、なればなり)

 十一 これこそや此度示さる「原受肉」神内部での冒険なるや
   (備考:恩師の学問「神人学」なり。その視点に「神神論」なし。従ひて、「太初のロゴス」における「神共のロゴス」の内在の出来事(即ち、我の言ふ「原受肉」)あるなし)

 十二 かくてこそインマヌエルの原事実「原受肉」のぞ香気溢るや





昨日の雨で潤った花壇です。

午前中もぶらり散歩で、花々と鳥たち――久しぶりにムクドリたちも・・

午後の散歩は、近くの団地まで・・・

夜はまた「三水会」の会合があって、行きつけの「魚処;でぶ」さんで、新顔のお二人も加わって、ゆっくいrと語らいを・・