延原時行歌集「命輝く」(第2792回)(神戸駅前「平安閣」における「滝沢克己協会関西支部の<等石忌>」)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2792回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

   6月18日

          諸説吟味の歌二十六首

一 じりじりと『平安』さらに上昇や所詮軍略敵ふまじやと

二 世の趨勢さまざまあれど形而上学的思索なくば詮無し

三 かくてぞや諸説吟味や今の時人類(ひと)任務ぞやどこどこまでも

四 かつてぞや恩師所説ぞありたるや自由の原点インマヌエルや
   (備考:滝沢克己『自由の原点・インマヌエル』東京・新疆出版社、1969年)

 五 原受肉心に出づる頃からや「原点」怪し思ひ始めぬ

 六 何故ならばその中にぞや動きなし原点ただに論議の基点

 七 これに比し「原受肉」はや「太初」のや「神共」受くる愛なるべしや

 八 然る故自由の「源泉」イマヌエル「原受肉」とぞ我や唱へむ
   (備考:「神共」の「原初」への《原受肉》、そもそもホワイトヘッドの「神の原初的本性」《the primordial nature of God》の骨格と同一方向なり。とくに、”Viewed as primordial, he is the unlimited conceptual realization of the absolute wealth of potentiality. In this aspect, he is not ‘before’ all creation, but ‘with’ all creation.” [PR, 343]の問題点(注。神の原初的本性は、潜在性の絶対的富裕の無限なる概念的自覚なるが、一切の創造界の「前」に非ずして、一切の創造界と「共」なり)とかかわるなり。See Tokiyuki Nobuhara, “Reflections on God Who Is ‘With’ All Creation: Phases of Mysticism in D. T. Suzuki Thought and Whitehead’s Metaphysics,” Process Studies, 34/2, Fall-Winter 2005, 240-263.ちなみに、ユルゲン・モルトマンが『神の到来 キリスト教的終末論 Das Kommen Gottes: Christliche Eschatologie』蓮見和男訳、東京・新疆出版社、1996年、487-489頁においてこの問題に触れているは、甚だ興味深し。無論、ホワイトヘッドモルトマンも、我の言ふ「原受肉」を知る者には非ず)

 九 何にせよ基教神学本道を往くべくも二項対立「産む力」なし

 十 恩師のやバルトに挑む論戦や「イエスの縛り」追求せるや
   (備考:滝沢克己『純粋神人学序説』福岡・創言社、1988年、170-175頁、参照)

 十一 イエスをば原事実にぞ即してや徹頭徹尾人となすとや
   (備考:同上、281頁、参照。「徹頭徹尾イエスを人となす」解釈学のどこに、厳密な意味における正当な「キリスト論」があるや? これ問題なり)

 十二 バルトはや滝沢イエス拘束の意識薄きをあやぶみたるや
   (備考:S・ヘネッケ、A・フェーネマンス編、寺園喜基訳『カール・バルト=滝沢克己往復書簡』東京・新疆出版社、2014年、163-167頁、参照)

 十三 我覚る原事実にぞ溢るるや原受肉とぞ御友承けしと
   (備考:『ヨハネ』15・15、熟読参照)

 十四 かくしてや我が見地はや「イエス対原事実」のや〈対立〉を超ゆ
   (備考:『マルコ』1・14−15、熟読参照。我が「原受肉」、イエスの告知「神の国は近づけり。」と同一の使信なり)

 十五 「神共」のロゴス「原初」に原受肉これ受け御友「友よ」と告知
   (備考:『ヨハネ』15・15、熟読参照)

 十六 いや果てに御友深みの底飛翔共往きてこそ終末や成る
   (備考:ホ氏も言ひたり:”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.” [IA, 295]これなんども引くも、重要一節なり)

 十七 我妻や絶後笑み増す不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:復唱)

 十八 ここにぞや明け染めぬそも永久いのち底の底より一切受容
   (備考:「底の底より」は一方、「原受肉」なるも、他方十字架上の御友「地獄落ち」にてルターの言う《sese in profundum humilitate》 [『詩編講義』参照]を経験し給ひし「ともあらはれ」(ホ氏の言ふ《its Unity of Appearance》)を示すなり)

 十九 我妻や棺の焼けるを越えてぞや思ひ出天父御友と献ず
   (備考:妻信子の基本信条これなりき:「加齢とともに、いつかは果てる時もいずれ来る身を自覚すると、一期一会を大切に、棺が焼けても天父のもとに持参できる思い出をふやしたい。」拙著『あなたにいちばん近い御方は誰ですかーー妻と学ぶ「ラザロとイエスの物語」』東京・日本キリスト教団、2011年、119頁、参照)。ここにあるのは、終末論「思い出の天父による受容・我らの奉献の信仰」なり。ちなみに、この信条は、我の知る限り、滝沢哲学にはなきなり)

 二十 かくてこそ原受肉とや御友学終末論の三相や成る
   (備考:『ヨハネ』3・16:“For ①God so loved the world ②that he gave his only Son, ③so that everyone who believes in him may not perish but may have eternal life.”キリスト教信仰の第一相「神の世への愛」は、我が信念によれば、我の言ふ「原受肉」以外に、至当なるものとして、考えられざるなり)

 二十一 バルト言ふ「和解論」なる御友学原受肉をぞ「神国」と宣すや
   (備考:『マルコ』1・14−15、熟読参照。ただし、我に取りては、バルトの和解論の範疇にあるも、御友神学は、厳密に言ひて、原受肉神の国)の父からの聴取、イエス自らの告知活動なるなり)

 二十二 御友学原受肉をば受くる故「イエス問題」ある故ぞ無し
   (備考:イエス問題=イエスによる束縛[bondage]ないし拘束[engagement]を是非いずれとなすかの問題。滝沢の場合、非とすることに大きく傾きたる故、恩師の基督信仰は、厳密にいへば、危殆に瀕しておりたり。その事は、彼の「原事実哲学」によって救抜されず、むしろそれによって困難にありたり。我は、この危機状態や、「原受肉」とこれを受けたる「御友神学」によりて至純なる仕方において消滅なすと信ず。恩師の場合にてや、正しきは「原事実」の境位のみとされたる故、受肉(我の言ふ御友神学)の境位は、不確かな正当性を蒙る事と成りたり。これ「イエス問題」なり。両者を、十全なる正当性において是となすは。我が「原受肉」の教説なりと我信ず)

 二十三 さらにぞや底の底のぞ飛翔にて一切受容万人不滅
   (備考:この「飛翔一切受容」の骨格、ホ氏の「神の帰結的本性」=「客体的不死性」の方向と一なり)

 二十四 そもそもや滝沢原点「受容」なく「終末論」なき二極対立
   (備考:二極対立=「イエス拘束」対「原事実」なり。この対立、我言ふ「原受肉」にて解消せしなり)

 二十五 原受肉闡明せねば畢竟や恩師バルトと和解あるなし

 二十六 それやしも明らかなれば両者にや無き終末論げに燦たるや
 





今朝は曇天、上は昨日の夕焼けです。

昨日はお昼をはさんで神戸駅前の中国料理「天安閣」での「滝沢<等石忌>」に出掛けました。あっという間の3時間、常連4人の語らいも弾み、滝沢克己没後33年のこの期に、新しく「滝沢に学ぶ会」をはじめることになりました。

昨日もサボテンが一輪咲きました。

本日も瀬戸海と花壇や花々などを並べます。