延原時行歌集「命輝く」(第2779回)(「さんさん花壇」とサボテン)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2779回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    6月5日

           見へたるやこその歌十七首

 一 原受肉見へたるやこそ嬉しけれ「神共ロゴス」「太初」孕むや
   (備考:これ、原受肉を「太初」(『ヨハネ』1・1・第一項)の観点から言ひしなり:<孕み>なり)

 二 これをしも「神共ロゴス」「太初」にや溢ると言ふも良きぞ嬉しき
   (備考:これ、原受肉を「神共ロゴス」の観点から言ひしなり:<溢れ>なり)

 三 恩師言ふ「インマヌエルの原事実」その秘義たるや原受肉なり

 四 原受肉そも見ずしてや原事実言ふならばこれ固定実在
   (備考:これ、アリストテレスの「不動の動者」《Unmoved Mover》ならむ。宇宙の外にありて、宇宙内の一切を動かす超越神、これなり。この神、宇宙内における「原受肉」知らぬなり)

 五 原事実原受肉をばなしたると言ふや誠にこれ冒険事

 六 実在や固定解かれて「冒険の改変のわざ」ともあらはれへ
   (備考:ホ氏も言へり:”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.” [AI, 295])

 七 「神共」や溢れけるなり「太初」はや孕む者なり原事実超え

 八 かくてこそ原事実はや偶有を去りてや成らむ「到来の神国(くに)」

 九 何故に「原事実へと」〈向かはむ〉と恩師や言ふや〈到来〉告げず
   (備考:「それに対して、《純粋》な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されはしない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルト共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分・不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。まったく逆である。神人学があの絶対的に偶有的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである。」滝沢克己『純粋神人学序説』福岡・創言社、1988年、272頁)

 十 イエスのや告知明らか「時満ちぬ神の国はや近づけり」とや
   (備考:「ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』」(『マルコ』1・14−15)。前者では、人間(滝沢)が原事実に〈向かふ〉なり、後者では、神の国が(人間に)〈近づく〉なり)

 十一 原事実留まりてぞや動きなし神の国そも近づきてあり

 十二 知るべきや神の国にや動きありこれ「原受肉」とや言はむかな
   (備考:すなわち「神共」から「太初」へと溢れ、「太初」「神共」孕む〈動き〉なり、冒険なり)

 十三 天来の動き享けてや御友げに「友よ」と叫び御許目差すや

 十四 奇妙にも神人学におのれほか目差すもの無し〈溢れ〉なければ

 十五 明らかに恩師イエスに挑みたり「神人学をイエス縛らず」

 十六 人もしも「原受肉」のぞ見へしなら御友「友よ」の愛に震へむ

 十七 その故や父から御友これ聴きて「友よ」となべて告ぐる深みぞ
   (備考:これ=原受肉なり)
 





昨日の「さんさん花壇」、朝の水やりを終えた後で・・・。

6月は「あじさい」ですが、いま「あじさい」も「薔薇」も奇麗です。

昨日もあさの水やりの後に、ご近所のお宅に咲くサボテンの花をのぞきに、ぶらりぶらり・・・

昼間のお月さん!

猫と雀と梅の実と

昨日も夕食の後に「ぶらり散歩」・・・

道端のビワの実を、ちょこっといただいて持ち帰り・・・

美味しくいただいて・・・