延原時行歌集「命輝く」(第2778回)(「さんさん花壇」など)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2778回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    6月4日

          いのち変貌第三相の歌十首

 一 或日我原受肉にぞ想到すイエス宣教源ぞこれ
   (備考:その告知これなり:「ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。』原受肉の事をイエスは福音と言ふなり。福音の事を、イエス自身は「神の国」と言ふなり)

 二 神の国言ひ得て妙ぞ「神共」の「太初」に溢る事ぞこそ是

 三 我が思索「原受肉」の発見や巡りてあるや検証やなる
   (備考:「原受肉」は元々、恩師滝沢の「インマヌエルの原事実」の言表に関して、これが『ヨハネ』1・1・第一項「太初のロゴス」に依拠したる発想なりしも、このテキストには周知のごとく「インマヌエル」ないし同等の意義の記述なし。「神と共」の言表はただ『ヨハネ』1・1・第二項にのみにあるに、恩師一度たりもこれに言及せず、第一項に依拠して「インマヌエルの原事実」を展開なさりたり。この点、正確に言へば。第二項に明示的なる「ロゴス神と共なりき」(pros ton theon)[その含意たるや、神とロゴスが「共」なる、内三位一体的意義なり]は、いまだ「被造界との共」の意義には明示的に言及せざるものなり。その事を十分に意識して、第一項の「太初のロゴス」を見るならば、ここには我の発見せし如く、「第二項の第一項への《原受肉》」が生起しおるなり。それを(無意識的に)約めて言表したるが恩師の表記「インマヌエルの原事実」なり。しかしながら、ここには「人ないし被造界と神共にいまし給ふ」との特殊の意義における「インマヌエル」(the Immanuel in its particular sense)と『ヨハネ』1・1・第二項の表記「ロゴス神と共なりき(pros ton theon)」に明示的なる、原本的な内三位一体的意義における「インマヌエル」(the Immanueu in its original, inter-trinitarian sense)との間の相違に関する明確なる意識が欠如したるなり。これ、滝沢「インマヌエルの原事実」論の根本的弱点なり(根本的誤謬とは言はぬまでも)。この問題を熟慮しおるうちに、我に、滝沢の「インマヌエルの原事実」に潜む真理性は、実は、「神共」の「太初」(滝沢の言ふ「原事実」)の内への「原受肉」なりとの認識が恵まれたり。「インマヌエル」の原本的、内三位一体的含意の特殊的、対被造世界的有意義性への「内在」すなわち「原受肉」たるや、神学における「最大問題」なり。知るべし。この問題に比するならば、カール・バルトの教会教義学の中心視する「和解論」の中心概念「神の御子の従順」《der Gehorsam des Sohnes Gottes》は、「神共」の遜りの相(ルターの《sese in profundum humiliare》)の於ける問題にして、主問題ないし最大問題が解明されたる上での問題なり。「原受肉」が解明されたる上での話なり。その意味において、神学界は未だ主問題を知らぬ境位にあるなり)

 四 父よりぞ原受肉聴き「友よ」とぞ告ぐる御友や「父と一」なり

 五 十字架上「何ぞ我」とぞ叫びしも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:叫ぶイエスと「深き低みの底」(原受肉のロゴス)の飛翔とは、ともあらはれなり。「何ぞ我」は、従ひて、底の底の飛翔が笑みつ答ふなり。これ、我が妻についても学びたる教へなり:我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す)

 六 かくてぞや「原受肉」をぞ告ぐる御友(とも)絶して飛翔アガペーいのち

 七 御友こそいのち変貌「二」の姿絶して「一」の飛翔共なり

 八 これこそやともあらはれの極致ぞや遂にや我らげに伴ふや

 九 御友共御父至りて永久なるも「我が羊飼へ」聴きてぞ降下
   (備考:『ヨハネ』21・15-17、熟読参照。これ、復活者たちの未来なり。我が妻、甦りて我と二人三脚本作りに降下し、働きつつあるなり)

 十 第三のいのち変貌姿こそ「平安ありて平和なる」なり
   (備考:拙著『平安』の意義、我妻及び広島長崎の被爆者方の第三のいのち変貌の姿にあるなり。尊し。「軍略ありて平和なる」とは虚偽のメッセージなり。虚偽のメッセ―告ぐるは、第三のいのち変貌を聊かも知らぬ社会教の現生信者なり)
  





上は昨日のわたしたちの「さんさん花壇」です。

昨日も延原先生からお電話をいただいたり、次のようなメールの往復がありました。

「 延原先生
 いつもありがとうございます。新しい明日の歌も、お届けいただき有難うございます。延原時行歌集:第42」に5月分も加えておきました。先生の「短歌神学」はいつもわかりやすく共感させられています。新しい論稿も期待しています。御陰様で兄の葬儀も恵まれた時で、実家の宗教が曹洞宗ということもあって、禅の葬儀を存分に魅了させられました。長兄のケガや家内の術後などあって、ぼくが「鳥飼家」を代表する役柄を担うことになり、多くの初体験をさせていただきました。日弁連鳥取県人会、高校の同窓会など熱心にかかわってきたようで、多くの弁護士仲間などもご会葬いただき驚きました。7月には納骨も執り行われるので、もういちど出かけることになるかもしれません。いつも、御加祷有難うございます。(ここまで書いていましたら、先生からの御電話をお受けいたしました。本当にご親切なお心遣い、感謝申し上げます。)
御礼方々 IXIA!! 鳥飼慶陽」

「鳥飼先生
 歌集第42回(2017年1月〜5月)テキスト化ご恵送いただき、お礼の申し様もございません。心から厚くお礼申しい上げます。御尊兄の御葬儀の後の御大変な時ですのに。
 私は、今度この短歌日記の中に、「いのち変貌三相の歌」を収めまして、特別な感懐に浸っております。今日は特に、第三相の歌、毎日新発見があるのですが、これは特に大発見であります。『時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ。」『マルコ』1・15.
 これを「原受肉」の観点から読みますと、特別な感慨があります。イエスの宣教活動に吸収されない、「神共」の「太初の原事実」に孕まれた溢れを胸いっぱいに感じます。その新鮮な感動を誰彼捕まえて告げたくてしょうがない、とでもいえばいいでしょうか。
 原受肉とは、地球への根付きなのですよね。従って、キリスト教の歴史だけに還元できません。地球史、いや、宇宙史内の出来事です。大地の底から温まってきます。そして、御友の右の「神の国のメッセージ」を聴きます。「悔い改めて福音を信ぜよ。」とは、十字架と復活以前の「大地性の福音」「神の国」(いのちの変貌の第一相)の事でしょう。それを御友が承けて下さったのが「御友道」(第二相)であります。御友道が天父にまで運ばれてゆくのが「大乗キリスト教「(第三相)です。運ばれた後降下(Pentecostal Vision)があります。だいぶ面白いキリスト教の全体像が見えてきました。これの伝道には短歌神学日記が一番よろしい。
 右、お礼方々 草々不一 IXIA! 延原時行」

昨日も「ぶらり散歩」で美しいサボテンやスズメたちとも出会いました。

終りに、猫ちゃんと住宅に植えているビワもいただいて・・・