延原時行歌集「命輝く」(第2776回)(ぶらり散策ー高幡山金剛寺のあじさい園)
延原時行歌集「命輝く」(第2776回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
当方の都合で5月31日と6月1日と二日間家を空けてしまい、先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」をUPできず失礼いたしました。本日、「今日の歌」まで三日分を合わせて収めさせていただきます。
5月31日
驚きぬの歌七首
一 驚きぬ友拙著をばここまでやご高覧ありこれ偉業なり
(備考:田中裕上智大学名誉教授より5月28日付メール便あり、拙著『平安』のご高覧あり、深謝無尽も:「延原時行先生 考古堂より上梓されたました『平安ありて平和なるーーホワイトヘッドの平和論、西田哲学、わが短歌神学日記』、御恵送頂き有り難うございました。聖霊降臨の主日を前にして、今、改めて、繰り返し再読しております。
御著書の副題は英語にてPeace Brings About Earthly Peaceとあり、最初のPeaceを「平安」と二番目Earthly Peaceを「平和」と、日本語で区別されておられます。
「みこころの天に行われるとおり、地にも行われますように」という主の祈りの示すごとく、最初の「平和」は「(主の)みこころの平安」すなわち「キリストの内にある平安」を意味するものと理解いたしました。
ホワイトヘッドの晩年の著書Adventures of Ideas(観念の冒険)でいう「観念(イデア)」を、神学の文脈では、主の言葉ないし物語りと私は理解しています。それは、空間的に云えば「天上より地上へ」の聖霊降臨であり、時間的に云えば「未来から現在へ」と到来し(advent)、我々に冒険(adventure)を促す聖霊の働き(spiritual act)を意味するでしょう。
ホワイトヘッドの平和論を、このように理解することができるならば、それこそが、今此処で恵まれた「主の平安」のうちにあって、「復活の喜び」をもって地上に「平和を作り出す人たち」を鼓舞する力となるでしょう。
ポルトガルの国際学会にてご発表予定の「原受肉」についての御講演を心待ちにしております。
日本の大地的霊性に根ざしながらも、天上より来たる福音の言葉のもつ普遍の信仰、聖霊の時代にふさわしき「御友」神学の誕生を祝しつつ、平和の器となりて地に平和を創り出す人々の平安を祈ります。
田中 裕
返歌:吾が心 底無き底は 天井の 御国に通ず 永遠の御友」
我が返書、29日付、以下の如し:「田中 裕 先生 素晴らしい御返事を蕪雑な拙著に戴きまして、お礼の申し様もございません。心より厚く御礼申し上げます。
永遠の 御友いますや 無底より 御許に至る 大乗基教
私は「平安ありて平和なる」宇宙原則なくば、人類(ひと)は、現米政権がホワイトハウスに掲げる如く「軍略ありて平和なる」Peace only comes from strength.へと流されてゆき、北との対峙の内に、核戦争にかまけ、おそらくその文明はあと百年持たぬことでしょう。その意味では、オバマ氏の成し得たことは、この時に、不朽の意味がありましょう。そして、広島と長崎の被爆者の方々の忍耐が如何に偉大なる達成であるか、人類全体の認識と感謝と成らねばなりません。
空爆されればテロで復讐する、いまのテロ問題が、広島と長崎ではありませんでした。これは誠に不思議な事であります。これは、日本には、「平安ありて平和なる」文明が、大拙の言う「日本的霊性――大地性」として、存在し続けている、証拠でございましょう。今、田中先生は、その文明を、キリスト教信仰の奥底に流れる聖霊降臨として美しく詠われました。そして、ホワイトヘッドの『観念の冒険』の形而上学的意味として解釈されました。見事です。
私は最近、今度の拙著の前に『哲学の喜び――チェンジの時代に、根底を省察する滝沢語録を読む。』を完成しました。近く公刊したいと念じております。その主旨は、恩師滝沢先生の「原事実」を受け継ぎながら、私の「根源論は根源ではない」という自己否定(アガペー)に立脚して、《原事実の「新しい現在」の産み出し》を哲学原理とする立場を、滝沢、サルトル、デカルトの厳密な批判的哲学的読みから、提言しております。Cogitoの厳密な再考をなし、「存在して考えることをしないではおれない」必然的事実を経たうえで、この事実にサルトルの言う「仲介なし」、ホワイトヘッドの言う「一切の存在者は直接に創造作用の被造者であって、形相による媒介を必要としない」”The definiteness of fact is due to its forms, but the individual fact is a creature, and creativity is the ultimate behind all forms, inexplicable by forms, and conditioned by its creature.”[PR, 20]消息を感得します。その上で、哲学的反省の中で、遡及的に右の消息を意義深く承認する意味で、ergo sum.と結語します。それをデカルトは元々(考えるあいだ、在る)と言っていました。これは、「花は咲いているあいだ咲く。」「古池や蛙飛び込む(あいだ)水の音(古池即蛙、蛙即古池)」と同じ宇宙に一貫する真理です。
この(あいだに在る)真理に「新しい現在」において撞着する自己自身のことを私は、「哲学の喜び」と申します。この「哲学の喜び」の修練を、これから、核時代の中で人類が基本的文明としてゆくことを「平安」と、哲学的に名付けることが必要だと考えています。これは「平安ありて平和なる」の「平安」の聖霊論的理解の世俗的側面であります。それなくば、脱核は可能ではありません。人類文明は百年と持たぬことでしょう。
右、お礼方々 草々不一 延原時行」)
二 ともどもに平安にぞや身委せむ如何に「何ぞ」と嘆きありとも
三 永遠の御友いますや無底より御許に至る大乗基教
四 驚きぬ『風の歌』本急上昇『平安』本の元本の快
(備考:5月29日現在アマゾン、67,067位:「神学」26位なり。『良寛「風の歌」にちなんで 御友神学の省察』新潟・考古堂書店、2016年刊、なり)
五 歌作り転寝にぞや身を委せ心地よき夢見しや我哉
六 永き間やうらぶれたるや元本よ汝が秋(とき)や来ぬ喜びてあれ
七 己が秋味合ひ来れば爽やかに詩情や溢る元本嬉し
6月1日
今日も我の歌七首
一 今日も我歌作りてや転寝す妻夢の中拙著愛づるや
二 我妻や我が歌愛す心より今また『歌』本解説してね
(備考:『良寛「風の歌」にちなんで 御友神学の省察』新潟・考古堂書店、2016年、なり。「解説してね」と妻まさに我と並びて語りおりしや)
三 いのちのや変貌ありて妻と共御国に遊び語る楽しも
四 核時代脱せむとてや『平安』本作りて地球愛づる嬉しや
(備考:『平安ありて平和なる ホワイトヘッドの平和論、西田哲学、わが短歌神学日記』新潟・考古堂書店、2017年、なり)
五 元本や『良寛「風の歌」』本よ愛語御友の御代や慕はし
六 地球をや御神底より祝します「平安ありて平和なれ」とぞ
(備考:底より=原受肉にて在すゆえなり)
七 如何に人類(ひと)敵意に割かれゆくやとも御神の祝意享くる非ずや
6月2日
いのち変貌の歌八首
一 三つのやいのち変貌ありてぞや感謝冒険希望や息吹く
二 第一のいのち変貌原受肉「神共」溢れ「太初」内在
(備考:『ヨハネ』1・1・第二項→第一項)
三 原栄ありて大地を祝してや野の花装ふ日々新たにぞ
(備考:『マタイ』6・30、熟読参照)
四 原受肉在りてこそなれ我ら皆あらしめられてあるや嬉しや
(備考:『マタイ』6・31-34、熟読参照。小野寺 功『聖霊の神学』横浜・春風社、2003年、278頁、参照)
五 「神共」や「太初のロゴス」原受肉なさりて我らアガペー知りぬ
六 「何ぞ我」十字架上に絶叫も「底の底」あり飛翔の為ぞ
(備考:『マルコ』14・34、熟読参照:今生の達成何処ある、「底の底」のぞ飛翔にこそや。宇宙のロゴス、自己完結に非ず、響和なり)
七 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
八 我覚る原受肉のぞ底よりぞ溢る神へぞ感謝飛翔や
私は「だんご三兄弟」の三番目ですが、二番目の兄が先に召されて31日にお通夜、6月1日の午前、葬儀があり、久しぶりに上京してきました。
上の写真は、6月1日の早朝、ホテルの近くの「高幡山金剛寺」の広い境内を散策して、芭蕉や誓子の句碑や雨上がりのあじさいの花々を、ゆっくりと・・・・。
我の実家は禅宗・曹洞宗であることから「法憲院緑風公道居士」の戒名を受けて・・・斎場へ・・・多くの初体験をさせていただきました。
この時を機縁にしてまた、新しい時の始まりを自覚させられました。