延原時行歌集「命輝く」(第2760回)(ぶらり散歩「長田区役所」)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2760回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    5月15日

          朝起きて一番の歌八首

 一 朝起きて一番にすは庭見なり木々や生きいき散髪見事

 二 ゴールデンクレスト様の偉容にや誠惚れ惚れ致し候

 三 辺りにや春爛漫の気や満つる五十嵐風の剪定ぞ冴ゆ

 四 花や咲くその背後にや原受肉華やぎ万物祝したまふや
   (備考:『マタイ』6・20:「きょうは生えていてあすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくして下さらないはずがあろうか。ああ。信仰の薄い者たちよ。」この信仰は「原受肉」すなわち「神装ふ」への信仰なり、キリスト教信仰ではなきなり。後者は前者を誉め称へる所に在るなり。それを『ヨハネ』15・15は、御友は神からなべて聴き「友よ」と告ぐと、言ふなり。これ我言ふ「御友神学び」なり。思ふに、芭蕉俳諧此処に成り立つなり。「よく見れば薺花咲く垣根かな」。「よく見る」こそ大和心ぞ)

 五 これこそや「神装ふ」とやイエス言ふ消息なるよ原受肉の香

 六 ちなみにや原受肉とはケノーシス(遜り)には非ずなり一歩手前ぞ

 七 ピリピ書や「簒奪撥無」(oux harpagmon)とぞ記す遜りなる受肉産む因
   (備考:See the following dictum in Phil. 2:6:”[Christ Jesus] who, though he was in the form of God, did not regard equality with God as something to be exploited [or snatched at].日本聖書協会訳:「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず(oux harpagmon))は、むしろ、「獲るべき事とは思はず」(私訳)の方が適訳ならむ。此処では《ロゴスと神の関係》を「固守すべき権力」なる見方があるも、それを在るといふニュアンスで聖書協会訳は「固守すべきとは思わず」となせるも、原義は、元々、「獲取すべくもない空無」、そういう意味で父から見ても、子から見ても平等なる「空の場」《field of emptiness》への至誠心と見るべきなり」

 八 かくてこそそもヨハネ言ふ「神と共」(pros ton theon)満たしけるなり原受肉まま
   (備考:多くの「ケノーシス」論議が、その一歩手前の「ウーク・ハルパグモン」(簒奪撥無)を全く論じないでいることに反して我、ピリピ2・6を論じ、第八首これ結論なり。2・6(簒奪撥無)を、2・7(ケノーシス論議)で代行なす事不可なり。それは、ヨハネロゴス論の場合、『ヨハネ』1・1・第二項「神と共」(pros ton theon)を、第一項「太初のロゴス」論で代行なす事不可なると、一般なり)






昨日は、ぶらり散歩で「長田区役所」まで・・・

この新庁舎は、あの大震災の数年前に完成していて、震災の前日にはここの会議室をお借りして学習会をさせていただいたり、震災の当日には、ここの広場で早々に救援のお食事が準備され、長い列に並んだ場所として、鮮やかに記憶されています。

また、震災の後すぐ、区役所の裏側ではたくさんの無料の電話機が設置され、私たちはここから、身内や知人へ被災の様子をお伝えすることの出来た、ほんとうに「有難い場所」で、いまも忘れることが出来ない場所となっています。

このひろばには、長田区の木「ハナミズキ」があります。

区役所の近くには、気楽に立ち寄って食事と珈琲をいただける場所もあって・・・ここの屋上には食べられそうな木の実もあって・・・

木の上には、大きな巣があって、どうもカラスが子育てをしているようで・・・

いまは「ツグミ」は姿を消してしまいましたが、渡り鳥とも言われる「ヒヨドリ」が目の前に一羽、すがたを見せてくれました。