延原時行歌集「命輝く」(第2741回)(春の花々)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2741回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    4月26日

           難問格闘の歌十二首

 一 今日の日や哲学難問格闘を心に期して散歩にぞ出づ

 二 これはしも心躍るの時なるや「原受肉」のや成立いずこ

 三 ふと我やヨハネ冒頭ピリピ書と検討せんか思ひたるこそ
   (備考:『ヨハネ』1・1・第二項「ロゴス神と共なりき」(pros ton theon)にインマヌエルの原意ある故、第一項「太初のロゴス」は、この原意の「原受肉」なるほか滝沢の意図なす「インマヌエルの原事実」の主張首肯なす事困難なるとは、多年の思索の上での我が批判的見解なり。ところで、『ピリピ』2・6の「ケノーシス」論の前提部分に「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」[聖書協会訳](“who, though he was in the form of God, did not regard equality with God as something to be exploited…”NRSV)とあり。Oux harpagmon (=not something to be exploited or snatched up)とは、「先在のキリスト」の境位ないし自由至誠心を示す聖書的専門用語なり。両箇所を照合なす事に我が思索向かふものなり)

 四 恩師はや「インマヌエルの原事実」太初ロゴスに見出しにけり

 五 全きの即自存在なるこれに一切原点あるや驚き

 六 然るやも「太初ロゴス」にイマヌエル語意やあるなしこれ如何にせむ

 七 我思ふ第二項の「神共」や「太初ロゴス」に「原受肉」せり
   (備考:これ我が提言「原受肉」なり)

 八 かくてぞや「絶対即自存在」にイマヌエル語義内在なすや
   (備考:これ我が提言「原受肉」の眼目なり:絶対即自存在に「インマヌエル」内在せず。対自絶対必要なり)

 九 しかもぞやピリピ書語る「自由心」ケノーシス以前の対自のうごき
   (備考:『ピリピ書』2・6の「自由心」、ケノーシス(2・7-8、参照)の源なり:「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれをひくくして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」原初の「絶対対自=自由心」なくして受肉の「従順」なし。この点の十分なる注目思索の大切さ思ふならば、カール・バルトの『和解論』も未だし)

 十 嬉しくもインマヌエルの「原受肉」原初対自の自由心こそそれ
   (備考:我が「原受肉」提言、「原初対自の自由心」述べる『ピリピ』2・6の考察に依りて論証なされたり。如何に嬉しき!)
 
 十一 原事実これ孕みてや「新現在」産み出すうちに宇宙進展
   (備考:かくて哲学刷新さるるなり。哲学宇宙進展の原理と実際の考察なり。恩師滝沢の「インマヌエルの原事実」、事実存在の原事実による支え明らかにせるも、ここから動き出る事分明ならず。原事実に「インマヌエルの原受肉」内在なせること明らかにせることにより、「動き」「プロセス」「宇宙の進展」をもたらす《原事実の「新しき現在」の産み出し》の哲学原理の発見あるなり、「進展の先端なる新しき現在に於ける、我思ふ喜び」あるなり、ここから遡及的に初めの「存在して考えぬ事あり得ず」の事理を了解なす故、我思ふ、故に我在りなり。その点、詳しくは、拙著『哲学の喜び チェンジの時代に、根底を省察する滝沢語録を読む。』に譲る)

 十二 かくて告ぐ《原事実のや「新現在」産み出し》こそぞ哲学原理
   (備考:哲学原理の考究のために、『ヨハネ』1・1・第一項と第二項、『ピリピ』2・6の比較研究なしたり。今日、2017年4月25日の収穫なり)





本日は朝から荒れ模様ですが、昨日は爽やかな一日でした。

上の写真は、わたしたちの「さんさん花壇」です。日ごとに花模様が変化してゆくのがわかります。

昨日は一日中、金森先生と辻先生の共著『学び合う教室』を読みふけりました。早速、金森先生へ感想のメール便をおくりました。金森先生の授業を取り上げたあのNHK作品「涙と笑いのハッピークラス」は世界の人々に大きな感動を残しましたが、オランダに招かれて各地で講演をされた記録など、うまく収めて仕上げられた読み物で、おふたりの息の合った共著と言うのも素敵です。

下の写真は、昨日のぶらり散歩のものです。春の花々がますます美しく・・

終りに、新長田のシューズプラザに出掛けた写真を添えておきます。