延原時行歌集「命輝く」(第2726回)(サクラとカワラヒワ)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2726回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    4月11日

         知られたるを知るの歌八首

 一 「原受肉」聖書中にぞ煌くや「知られたる」もぞその一つなり
   (備考:『第一コリント』13・12、熟読参照:「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの見るところは、今は一部分に過ぎない。しかしその時には、わたしが完全に知れれているように、完全に知るであろう。」)

 二 その時にゃ全く知らる如くにや全く知るや「原受肉」の知

 三 「原受肉」知るや御友の我ら向け「友よ」と呼ぶをいただきてこそ
   (備考:『ヨハネ』15・15、熟読参照)

 四 かくしてや御友神学原受肉とや未来知の〈間〉にぞ生く

 五 ここにぞや中間時観確立す時間三相躍動やせむ
   (備考:①原受肉「知らる時間」;②御友神学「救済への招喚時間=中間時」;③完成時間「復活永生」なり)

 六 これこそやヨハネ神学描きしや「世界愛」「御子」「救済」の図や
   (備考:See the following dictum: “For ① God so loved the world that ② he gave his only Son, ③ so that everyone who believes in him may not perish but may have eternal life.” John 3: 16)

 七 全体をインマヌエルの変貌と見ればここにぞ歴史観発す

 八 ともかくも知られたる知る動機ぞやなくば歴史の発す故なし
   (備考:第一の変貌(「原受肉」)の事情以下の如しなり:インマヌエル『ヨハネ』1・1・第二項の「ロゴス神と共にありき(pros ton theon)」が第一項のインマヌエル「太初のロゴス」(滝沢の言ふ「インマヌエルの原事実」)内に孕まれてあるを我「原受肉」と言ふなり。これ「原義のインマヌエル」(=pros ton theon)の第一の変貌なり。次に、御友「父から聴きたる事」我らに「友よ」と告ぐる事、インマヌエルの第二の変貌なり。第一の変貌が神内部の変貌なりとせば、第二の変貌は、神内部の変貌から人への変貌なり。第三の変貌は、神内部の原初の「インマヌエル」に含まれて在る事即ち「原受肉」を全面的に我らが御友と共に知る事なり。そのためには、①「原受肉」から、②御友と共に、③父へと 飛翔なす事必要なり。なんとなれば、「原受肉」滝沢の言ふ「原事実=人間実存の深い低み」より底に在りてこの底より「原初のインマヌエル」へと御友と共に飛翔なす事必要なればなり。
 この事、次の我が歌を詠ひし時に直覚せる事態なり。

 我妻や絶後笑み増し不思議やも/深き低みの/底ぞ飛翔す

 「インマヌエルの原受肉」「インマヌエルの原事実」の「底」なるが、この「底」まで御友下れるにあらざれば(ちなみに、「下る」とは「知る」との意味なり)、「底」御友と共に父へと我らを抱へて飛翔することあり得ざるなり。
 此処に看取さるべき論理は、インマヌエルの飛翔の不一不二と我申すなり。
 「原義のインマヌエル」(=pros ton theon)は、一方「原受肉」へと変貌なすも、他方「受肉」へと変貌なす事により御友として父から「原受肉」の真理聴くなり。これ、御友道なり。御友十字架上「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(『マルコ』15・34)と絶叫し、陰府に下り給ひし時、これ「原受肉」と合し給へる事意味すなり。これ、伝統神学では詳らかにされざる一事なり
 かくて、「インマヌエル飛翔」の不一不二により「原受肉」と「受肉」力を合はせて「原義のインマヌエル」へと飛翔還帰なす事これ復活永生の荘厳なる道往きなり。この真理先述の我が歌に妻の笑み増しにちなみて詠ひしなり。
 「永遠の救済」我の言ふ第三の変貌なるが、これ、一方「原受肉」の「原義のインマヌエル」への還帰なるが、他方「受肉」即ち御友の我々人と共なる甦りの飛翔なり。此処に復活の、御子の「自らなるあらはれ」なると共に、主なる御父による「甦らされ」なる二重神秘在るなり。聖書に於ける「復活」表現に能所両記あるも、これ「原受肉」と御友(受肉)の不一不二真理の故なる事述べたるや、我が御友神学が初めてなり。一般神学界には知られず。
 三変貌の考察さらに明かすならば、変貌一は原歴史、二は歴史、三は超歴史と名付くべし。歴史の原義は、先にものべし如く、「知られたるを知る」(『第一コリント』13・12)なり。先ず形而上学的に、次に一般論的に。
 誠に面白き事に、変貌一は、ドストエフスキーの『罪と罰』の根源掘削の創作方法に見られ、変貌二は、ホワイトヘッド形而上学にルターのメタノイアを形而上学の変転(transmutatio)に至るまで追究する形で展開されている如くなり。我が御友神学の哲学的根拠なり。以下の文章はその白眉なり:
 In this Supreme Adventure, the Reality which the Reality transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention. [AI, 295]

 変貌三は、良寛の辞世の短歌に、仏教の悟りの極致如実に、現れたり:

 裏を見せ 表を見せて 散る紅葉

 散る紅葉 弥陀の御国に 躍り往く 時行 )

 九 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば

 十 新著のや表題かくて定まりぬ「いのちの変貌と御友神学」





今朝の神戸は荒れ模様です。昨日まで満開だった桜も散ってしまいそうです。

上の写真は、私たちの住宅の中庭の景色です。昨日も午前と午後と方法を変えてぶらり散歩を楽しみました。

まずは東側の兵庫駅方面の住宅団地に・・・・

さらに東に向かってぶらりぶらり・・・・

帰り道では小さな公園に立ち寄って、はじめて石像を写真に収め、木の上に作られた大きな巣を見つけましたので、それもカメラに・・・

ここには毎年立派なツツジの花が咲き始める場所として注目していますが、昨日は一輪だけ、ツツジが咲いていました。

ところで、午後の散歩・・・まずは、お隣の小学校に咲く「カイドウ」の花・・

そして「梅ヶ香公園」へ・・・

散歩の帰り道で、目の前の小さな空き地で、二羽の「カワラヒワ」が餌をさがしている場面にであいました。カワラヒワと言えば、いつも樹のてっぺんで美しい声を張り上げていますが、こうして地べたで、スズメたちのように餌を食んでいる姿ははじめての光景です。

終りに、私たちの花壇に咲くチューリップといただいたライラックの花を収めます。