延原時行歌集「命輝く」(第2724回)(満開のソメイヨシノ)


                
  延原時行歌集「命輝く」(第2724回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    4月9日

          究極事と文明の歌十五首

 一 此度の書地球文明永かれと願ひや切に我や書きたり

 二 核があり宗派絶対観あればこの先百年何が起こるか

 三 文明の先端行くと誇らかに基教米国核投下せり

 四 これ誠文明なるの道に就き大なる誤解ありにしぞ故

 五 かくてぞや文明に二種ありと見ゆ性(さが)創作用性(さが)正義

 六 究極事窮むるやそも空爆に正義ありとは如何なるの無智

 七 創作用そも究極事性(さが)なすや無自性なるに大悲事(じ)に寄す
   (備考:これ『平安ありて平和なる』の結語なる形而上学歌なり。究極事に至誠なる創作用如何なる場合にも固定的実在に非ざる故に、無自性にして大悲、なる不思議以て我々一々の事=事々無碍の事=に心寄せたまふなり)

 八 究極事窮むる性(さが)や創作用非ずや正義これ審判ぞ
   (備考:これ究極事に至誠なるにあらで、同一なる神的権威とて、正義を主張する文明の道筋なり。地球中のなべてを審判せんとするなり。この文明の審判意欲と核とが合体せるところに、米国基督教絶対主義と核軍略の合体あり、核投下に至れり)

 九 汝らの天の御父至誠なるその如くにや汝至誠なれ
   (備考:『マタイ』5・48、熟読参照。天=形而上学的究極者、ロゴス神と共なる処の空間即ち、内三位一体的神性=に御父至誠なるとは、ホワイトヘッドの言ふ「無自性なる創作用」に誠なる御神の事なり。決して天と同等なる権威、審判者にはあらで。ここに至誠なる地球文明のはたらき望まるると御友宣ふ。要するに、形而上学的究極者なる「天」に至誠にいます「御神」の御旨にはあらで、「天」=「神」の同一視こそ、基教にもイスラームにも普遍的な形而上学的神学的誤謬なり。イエスの宣べ給ひしは、「天に至誠にまします御神」の「御名=名代=御友」を崇めまつる信の道なり)

 十 究極事誠なる性(さが)創作用そも大悲産み事(じ)に寄すやこそ

 十一 我憂ふ審判文明この先や百年持たず核大戦も

 十二 何故なるかその本質や社会教無自性大悲露知らざるや

 十三 社会教その本質をドスト知るパンを与ふる大審問官
   (備考:『カラマーゾフの兄弟』読むべし。なお、西田幾多郎の「場所的論理と宗教的世界観」(岩波版全集第十一巻の「五」)参照。拙著『地球時代の政治神学――滝沢国家学とハタミ「文明の対話」学の可能性』創言社、2003年、182頁、参照)

 十四 究極事窮むるやこそ創作用無自性なるに大悲脈々

 十五 オバマ氏や平安ありて平和なる人類(ひと)コア矛盾懺悔友抱く
   (備考:復唱)




昨日の午前中のぶらり散歩は、少し遠出をして「志里池公園」の銘木桜「ソメイヨシノ」の満開の景色を満喫してきました。

この近くは若き日のゴム工場があって、お昼時には弁当を開いて一服した場所です。当時「苅藻中学」がありましたが、現在は「長田中学」となっています。

そして「新湊川」を見下ろせば、立派な鷺が一羽、そしてカモも。

水浴びをする二羽のハトも・・・。ハトたちの水浴びははじめて目にしました。

そして帰路、奇麗な鳴き声で「マメマシ」が「マメマシへコキ・キキココキー」と鳴いていて、カメラを向けました。

「マメマシ」と呼ぶのは「鳥取県東伯郡」で呼ぶらしく、僕の田舎は「鳥取県東伯郡関金町」(現在「倉吉市」)です。ネットで調べると、一般的には「イカル」と呼んで「キコキー」と聞こえるのだそうです。

午後のぶらり散歩では、更に遠出をして、傘をさして「会下山公園」まで。今が満開で、ウグイスも鳴いてくれました。

この公園には、桜の樹も数多く、あの「太白」(たいはく)に似た桜や「大島桜」も満開でした。

以下、雨の会下山公園です。

帰路の「新湊川」添いの桜径・・・。