延原時行歌集「命輝く」(第2625回)(とり・ねこ・はな)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2625回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    12月31日

             恩師反芻の歌十首

 一 恩師はやイエス成したる「神人」や原事実にぞ先立たる言ふ
 二 されどもやインマヌエルの「原事実」原受肉にて「共」[pros ton theon]ぞ宿すや
   (備考:インマヌエルの原義、恩師言ふ「インマヌエルの原事実」(「太初のロゴス」『ヨハネ』1・1・第一項)なる「実存の根底」「人間の原点」にはあらず。むしろ、「ロゴス神と共に在りき[pros ton theon]」(『ヨハネ』1・1・第二項)に明記さるるなり。従ひて、事柄の順序から言ふならば、「共」[pros ton theon]まず在りて、この世との関係においては、太初のロゴスの内に「原受肉」せるものと我は見るなり。そもそも、「太初のロゴス」の主題には、「インマヌエル」の言辞見られず。これは「ロゴス神と《共に在りき》[pros ton theon]」において初めて明記されたるなり。この点をすっ飛ばして、「太初のロゴス」のところに(「実存の根底」を見るは正当なるも)「インマヌエル(それもその)原事実」を見るは、余りにも牽強付会なるにあらずや。この「無理」を押して提起されたるが、恩師の「インマヌエルの原事実」論なり。正しくは、「インマヌエルの原受肉ないし内在」と訂正すべきなり)
 三 「共」とはや「ロゴス神とぞ共なりき」その「共」にして《pros ton theon》 なり
   (備考:ちなみに、《pros》とはドイツ語にて《gegenueber》に相当する語にして「上なるものに向かって」との意なるとか。本来的に「祈り」の意義ありとさるるなり。単に「一緒にいる」にはあらざるなり)
 四 これをしも「インマヌエルの原初」とぞ我は言ふべしその他になし
 五 滝沢は原事実をば始原としイエス後とぞ言ひたる人ぞ
 六 イエスはやこの形をぞ取らず言ふ「原栄をぞ華やがせ父」
   (備考:「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」『ヨハネ』17・5、熟読参照。ここに、①父、②祈る御子イエス、③原栄=原初のインマヌエル、④「今み前に私を輝かせて下さい」との欣求、の四極あり。滝沢の「インマヌエルの原事実」論では、第三点のみ指摘さるる如し。①も②も④も捨象され、③の原事実論のみあり。それのみ論者滝沢の主題として、「絶対客観的に実在」せるものと「主張」さるるなり。これ、誤認されたる主観原理の誤謬なり。我が御友神学、四極すべて、御友イエスに学ぶものなり)
 七 主の祈り此処に顕る尊きや原事実をば始原となさず
   (備考:むしろ「始原の変転」の祈り貫徹す)
 八 原事実始原となしてイエスにや縛られぬ言ふ恩師祈らず
   (備考:滝沢『純粋神人学序説』272頁、熟読参照。)
 九 欣求のや世界始原を変転すホ氏言ふ如く「ともあらはれ」へと
(備考:See《its Unity of Appearance》[AI, 295])
 十 我妻の切れ目なき笑み御友共父へと飛翔嬉し嬉しと



愈々今年も大晦日、好天気でもあり、たっぷりと洗濯を済ませ、掃除も念入りに・・・。

まだまだ部屋のあちこちに、たまったほこりを落とさねばならない場所も残っています。風呂掃除もしっかりと・・・・。

まちは「年末警戒中」・・・本日の写真は、あいもかわらず「ねこ」と「とり」と「はな」たちです。

年末年始、これまでよく旅に出かけていましたが、このところ来客もあって賑わしく、我が家にいながらの大晦日になります。

これはメジロちゃんですよ。