延原時行歌集「命輝く」(第2620回)(会下山公園・コサギ・セキレイ・スズメ)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2620回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

「比例中項のインマヌエル学」の省察が続きます。

    12月26日

            御友降誕の歌三首

 一 いと高き所に御神誠栄(まことさか)地に下りてや平和生(な)る哉
   (備考:『ルカ』2・12−14を我が哲学詩「創作用そも究極事性(さが)成すや無自性なるに大悲事(じ)に寄す」にて再解釈なしたるが、この歌なり。「いと高き所=天」を創作用=空と取る。しかれば、御神これに至誠ゆえ「栄光」=誠栄(まことさか)となる。キリスト教絶対主義に現れたる「暴力的絶対者」に非ず。この御神の「誠栄」を見て「汝らもその如くあれ」(『マタイ』5・48)と宣ふ御方御友なり。御友「誠栄」の御しるしとして生まれたり)
 二 御友のや降誕如何に嬉しきや誠栄いま平和のしるし
   (備考:「誠栄→平和のしるし」の全射程が御友なり。「父から聴きし事を、友よ、皆汝らに告ぐ」(『ヨハネ』15・15)と宣ふ御方としてなり。ロゴスキリスト論的には、この事態、以前語りし、インマヌエル原事実を基点にせる「共」/「友」の比例中項論を成すなり。御友の御降誕は、この全射程の「しるし」の御降誕なり。単に史的イエスの誕生に非ず。「共」/「友」比例中項インマヌエル宇宙論の「しるし」の御降誕なり。然るが故に「おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った」(『ルカ』2・13)の記述が精確なるなり)
 三 ひとりのや幼子御友生まれけり誠栄(まことさかえ)や大悲事(じ)に寄す
   (備考:重要なるは、ひとりの幼子が「御友」として誕生なさりたることなり。「御友として」とは、「誠栄や大悲事に寄す」と言ふ宇宙的大事件、即ち、「共」/「友」比例中項インマヌエル宇宙全体の受肉的激動ゆえ、なり。一言でいえば、御友の激動なり。我々を、友よ、と呼びかけ召し出し、死してはご自身と共に甦らせて、御栄がそれである「共=ロゴスは神と共なりき・pros ton theon」といふ意味での「原初のインマヌエル」へと御友の御父への飛翔「飛翔のインマヌエル」によって導く、これ即ち我の言ふ「御友道」なり。その基点に恩師滝沢の言ふ「インマヌエルの原事実」あるも、これは、「ロゴス神と共なりき」(pros ton theon)の「この世への内在」として初めて「インマヌエル」と言ひ得るなり。この「内在」は、我をして言はしむるなら、「原受肉」と言ふべきなり。滝沢は、「原受肉」の思想家なりしなり。「原事実」とは、そういう含蓄の思想なり。従ひて、「ロゴス神と共なりき」(pros ton theon)を前提せざれば、根拠なきなり。しかし、それを前提なすならば、実に興味深き思想なり。もっとも、「原受肉」なる発想は、ここに我が初めて用ひし文言にして、滝沢の物に非ず。然るが故に、「原事実」とは、幻惑的な呼称なり。その実は、真に原本的なる事実には非ざるなり。我の只今言ひし如く、正確には「原受肉」なり。ホワイトヘッドで言ふならば、「原受肉」は”God is in the world.” (see Lucien Price, ed., Dialogues of Alfred North Whitehead, London: Max Reinhardt, 1954, p. 366.)の事態なり。有機体の哲学の原構想はここにあるなり。そうでなければ、宇宙の有機体的根幹なきなり。この根幹をホワイトッヘッドは、周知のごとく、「交互関係」《Reciprocal Relation》 と呼べり。而して、さらに人格主義的に、《The great companion—the fellow-sufferer who understands》 と名付けたるなり。我は『ヨハネ』15・15に依りつつ「御友」と呼称するなり。御友とは、宇宙論的キリスト論の人格なり。それは静的ヴィジョンに非ず、動的招きと究極的救済を意味する「御友道」なり。御友道なしにキリスト教なし!)
   




昨日は昼食の後、久しぶりに「会下山公園」まで「ぶらり散歩」・・・

湊川の隧道のところに、一羽の美しいコサギが水遊びをしていました。

冬の会下山公園を、ぶらりぶらり・・・

今回も、セキレイとスズメたちと・・・・ねこちゃんと・・・・