延原時行歌集「命輝く」(第2546回)(休日ぶらり――湊川公園・新開地)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2546回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。


    10月11日

            友や言ふの歌八首

 一 友や言ふプロセスからの解脱をや仏教求むホ氏かく非ず
   (備考:日本ホワイトヘッド・プロセス学会 第38回全国大会:2016年10月8日ー9日於立正大学品川キャンパス 出席のみぎり、東急ステイ新橋にて10日早朝記す。石田正人(ハワイ大学マノア校)提題「有機体と因果性―日本仏教哲学からの問い」にちなんで。ここでは石田ペーパー序文〈有機体の哲学への日本(仏教)哲学の貢献〉と結論〈「有機体」か「プロセス」かー結論にかえて〉を挙げる:
 *有機体の哲学への日本(仏教)哲学の貢献
 「有機体の哲学と仏教哲学との比較考察は、少なくとも数十年の歴史をもち、東西の宗教対話においてとくに顕著な貢献をなしてきた。特にアメリカ宗教学会を中心とする西田哲学とホワイトヘッド哲学との比較研究が重要な媒介となり、日本仏教哲学との接点もかなり明瞭に把握されるようになった経緯がある。延原時行氏による『ホワイトヘッドと西田哲学の〈あいだ〉――仏教的キリスト教哲学の構想』(法蔵館、2001年)は、その背景や実りある成果を伝えているといってよい。このような東西対話・交流をけて、日本仏教哲学は、プロセス哲学に対して、様々な概念的貢献や有意義な問題提起を行いうる、と報告者は考えている。以下では、日本仏教哲学の視点から有機体の哲学に対して問いを提起するために、晩年の西田幾多郎が用いた一つの図を手掛かりに考察を始めたい。本論では、日本仏教哲学の側から道元(1200-1253)と親鸞(1173-1263)とを取り上げることを通じて、プロセス哲学が「科学」における因果性の概念に密かに依存していないかを検証してみたい。」
 *「有機体」か「プロセス」かー結論にかえて
 「原始仏典をみると、釈迦の教えにとって「解脱」がいかに本質的であったかは、一目瞭然である。田中裕氏が指摘するように、仏教に関するホワイトヘッドの知識は、おそらく「原始仏教、南方に伝えられた上座部の仏教を念頭に置いたもので、中国や日本に伝えられたいわゆる大乗仏教ではない」だろう。しかしそれならば、「解脱」という問題は、避けて通ることができないし、本報告が取り上げた素材から窺われるように、道元親鸞といった日本仏教の宗祖たちにとっても、「解脱」は本質的な問題であった、と言いたい。さらに日本仏教の独自の哲学的側面に光を当てると、最終的には、有機体の哲学に対する二つの根本的な問いに突き当たる。まず、「有機体の哲学」は、非対称的な因果性〈以外〉の因果性をどこまで認めるか、という問いである。第二に、認めるならば、そのような因果性からの解脱ないし解脱力をどう説明するか、という問いである。現在のところ報告者は、ホワイトヘッドやハーツホーンは、科学的因果性のパラダイムに多少とも流されることによって、「因果性は、非対称的な推移におけるそれのことである」と理解し、したがって生成における水平直行面の因果性を考慮から外し、結果的に、第二の問いが不要になったのではないか、と考えている。因果性を、非対称的な時間におけるそれに限定して痩せさせると、「生成」は仏教で考えるほどには「がんじ搦め」ではなくなるので、「有機性」よりも縦のテンポラル・フローが目立つようになり、「有機体の哲学」は「プロセス哲学」に近づく。だが、仏教哲学は、本来は「プロセスからの解脱」の哲学ではなかったか。折角のシンポジウム「科学と宗教」(注、提題者:Steve Odin, “Overcoming Nihilism in A. N.Whitehead & Nishitani Kkeiji: A Key Problem of Sceience & Religion”;石田正人(ハワイ大学)「有機体と因果性―日本仏教哲学からの問い」;村田康常(名古屋柳城短期大学)「ホワイトヘッドの科学哲学と宗教哲学」;板橋勇仁(立正大学)「科学の方法と宗教―パースと西田」)なので、このように問題提起をして、パネリスト並びに参加者諸兄からぜひ様々のご教示を賜りたい。」)
 二 我答ふキリスト教のプロセス観「パレドケン」(paredoken)あり見捨てらるると
   (備考:『ローマ』1・24−28、『マルコ』15・34、熟読参照)
 三 「パレドケン」見捨てらるるやそれからの自己救済も新たなる委棄
   (備考:自己解放の中への委棄性[Verlassenheit, abandonment, paradounai]こそ単純な遺棄の事実を越えて「遺棄性」の動態を示すものなり。ドストエフスキーが『罪と罰』の中で探究なせる如く、「罪」の中へと「罰」が入り込みたるダイナミックスこそ人間の内的プロセスなり)
 四 イェスがや何ぞ我をぞ見捨てしや叫びし時や自他誠不二
   (備考:『マルコ』15・34、熟読参照。イエスの自己(「我」)と人類(ひと)の自己(「我」)不一にして不二なり。これ我「御友共」と言ふなり)
 五 人類(ひと)の罪押し寄せ来り十字架上嘆き叫ぶや御友現前
 六 これがぞや復活端緒今こそや我妻の笑み此処に咲きけり
 七 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば
   (備考:復唱)
 八 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:復唱。この「飛翔」、解脱、第三のプロセス冒険、復活なり)







昨日の「体育の日」の休日は、来客のリクエストに応えて、電車に乗って「湊川公園・新開地」方面をぶらりぶらり・・・・。

上の写真は「湊川公園」で撮ったものです。

作家・藤本義一さんの言葉と共に・・・。

この公園は、2013年3月に花と緑あふれる公園にリニューアル。第3土曜日には毎月「神戸新開地アート縁日」が開催されています。


ひろい公園の奥には、名馬にまたぐ楠木正成の雄姿が・・・

市民の憩いの場所になっていて、木の下ではいつも、将棋や囲碁に興じる人々もいて・・・



隣接する兵庫区役所の前には、立派な市民花壇があります。



湊川公園から浜側に、長い長い「新開地商店街」は続きます。

新開地には太鼓判の名物店が多くあります。

久しぶりに、知る人ぞ知る「グリル一平」さんに立ち寄って昼食を・・・

「一平」さんは、三宮と元町にも店を構えて、神戸を代表する洋食店として知られています。とくに、そのオムライスの味は、やはり最高! 創業から60年以上、かわらぬ人気のお店です。



食事のあとはやはり「神戸の珈琲を一杯」という客人の求めに応えて、純喫茶「エデン」さんへ・・・。

昭和23年創業といわれる、船のキャビンを模した造りの洒落たお店で、珈琲の味も、いつもかわらず贅沢なもの・・・店主の暖かなお話も素敵でした。



終りに、新開地「聚楽館」跡の建物と家に戻って私たちの住宅の一本の薔薇と・・。