延原時行歌集「命輝く」(第2539回)(「秋の桜」最後のお花見―トンボと蝶とヒヨドリと)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2539回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。


    10月4日

            先達にの歌十首

 一 先達に令夫人のぞ悲報受く「深刻打撃全一に在り」
 二 全一や生死含めて一つなるいのちの幸ぞ御友共にや
 三 我やしも三極形而上学と詠ひしものや全一学ぞ
 四 如何にぞや辛き言へども切れ目なき天地の幸や共ませる哉
 五 日に三度逝きし友方祈りにぞ憶えて悟る喜悦滾るを
 六 昨日や歌ながしまに赴きて心ゆくまで味わいにけり
   (備考:ながしま=城下町新発田の老舗鮨処なり)
 七 先達の便り読みつつ令夫人全一学中笑む覚えたり
   (備考:小野寺功先生9月23日付御書簡に以下の記述あり、深謝無尽も:「延原先生の奥様のように牧師の資格のあるキリスト教の深い理解者ではありませんが、信仰の同伴者として共に歩んできた者として、先生がこれまで書かれてきたことの真実性が実によくわかります。
 この度の「風の便り」の中に「御友全一学の歌」という言葉が出て参りますが、これは私の立場と極めて近いという気が致しました。
 私は学生時代にロシア哲学の創始者ウラジミエル・ソロヴィヨフと、日本では森信三先生から全一学の「学問方法論」を学びましたが、三位一体の場の神学は哲学的にはこの全一学と結びつくように思います。延原先生がこの点に着目して下さるのは、私としては大変嬉しく、これも必然的な流れという気が致しますが、最後に「絶対無的主体のはたらき」という言葉が出てきますが、日本の哲学や神学も、ここまでこないと、その独自性を生かすことができませんね」)
 八 我妻の切れ目なき笑み道場と成せる我が道嬉し嬉しや
   (備考:我妻の切れ目なき笑み見詰めに見詰めて我「三極形而上学の歌」に想到せり。それ故妻笑み我が活ける道場なり。決して「哀れなる寂しき逝去物語」にあらず)
 九 単なるの望みに過ぎぬ基教去り生死全一復活道往く
 十 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:復唱。深き低み=太初のロゴス(『ヨハネ』1・1・第一項);底=神と共なるロゴス(『ヨハネ』1・1・第二項);飛翔す=御父へ、なり)
 十一 我が望み復活徹見時代底「平安ありて平和なる」燃ゆ
   (備考:『平安ありて平和なるーーホワイトヘッドの平和論、西田哲学、わが短歌神学日記』只今新潟考古堂書店にて編集印刷中なり。11月15日に初校来、直ちにエピローグとあとがき記す所存なり)
 十二 我妻の切れ目なき笑み道場ぞさて如何なるの成果あらむか
 十三 この秋や復活あらば核時代今や正にぞ変転間際
 十四 寂しきの逝去感覚時代底滾り滾りて喜悦変貌





大きな台風が沖縄を過ぎてこちらに近づいていますが、上の写真は昨日の夕焼けとベランダで採れた「むかご」のご飯です。

ところで、昨日の「ぶらり散歩」でもご近所の「秋の桜」の見物にでかけました。多分、昨日のこれが「秋の桜」の見納めとなるものです。

マンジリと桜見物をしてカメラを向けていると、いま公園をたくさん飛んでいるトンボが一匹木にとまってきました。



午後と夕方にも「桜見物」に出かけました。



この公園の花と蝶、そして「こぶしの実」を撮りました。



終りに、小学校のへちまと私たちの住宅で大声で鳴きかわすヒヨドリたちをねこちゃんと共に収めます。