延原時行歌集「命輝く」(第2456回)(投票所となったお隣の小学校の花壇など)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2456回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。


    7月11日

            畢竟やの歌六

 一 畢竟や宇宙終局何望まむ平定かそも至誠心かや
 二 至高のや御神空に至誠とぞ称ふ御友や告ぐ「至誠なれ」
   (備考:『マタイ』5・48、熟読参照)
 三 麗しき御友の称へなくばぞや「空神至誠」如何で知らむや
 四 御友のや御告げありてや我ら知る僕にあらず我神の友
   (備考:『ヨハネ』15・15、熟読参照)
 五 永久に我御神の友と御友言ふこれぞ誠の平安なるや
   (備考:ホ氏も言へり:”God is the great companion, the fellow-sufferer who understands.” [PR, 351]あくまで下へ慈悲在りて、なほ天の心を理解為す、これぞ「ロゴス”神”(冠詞ho付かぬtheos)なり」(『ヨハネ』1・1・第三項)と言はるる御友のや、交互的なる存在様態なり。かくて我が命題”This exists loyally and reciprocally.”明らめられたり)Thisとは、イスラム哲学において「至高者=神」のことなり。トマス・アクィナス以来、アヴィセナより存在論Esse Ipsum)学びたるうえ、神を”Esse Ipsum Subsistens”とせしことにより、イスラム哲学に対峙せしカトリック神学生まれたり。これ神学的「封じ込め」(containment)と言はれたり。この辺りの事、拙著『ホワイトヘッドと西田神学の<あいだ>―−仏教的キリスト教哲学の構想』(京都・法蔵館、2001年)プロローグ:仏教的キリスト教哲学の形成要素、参照のこと。ただし、我が思索は、いずれとも相違して、(1)まず、「神性・父」に関してThis exists loyally.と述ぶるなり;(2)次に、この命題を称へる御友神学の命題として、and reciprocally と付加することにより、全体として、This exists loyally and reciprocally.という新命題を提示するなり)
 六 かくあらば平安ありて平和なる御声刻々「我が羊飼へ」
   (備考:『ヨハネ』21・15、16、17、熟読参照。ご照覧の通り、我が述作は、聖書典拠を挙げたうえ、形而上学的考察を徹底的に巡らすごとき、短歌神学日記なるべし。そこに至るためには、日々の歌胸奥をついて出づるべし。これ、ホワイトヘッド的に言はば、(1)「ロマンス」の段階としての歌詠み;(2)「精密化」の段階としての聖書読み;(3)「普遍化」の段階としての形而上学的思索、の三段階あるなり。(3)では、ホワイトヘッドの著作の吟味、恩師滝沢克己の純粋神人学の再吟味等、思索や楽し。(1)では、我妻絶後笑み増しの歌なくば我にロマンスなき如し。(2)では、聖書の徹底的心読我が楽しみなり。これら三要素、わが短歌神学を構成なせる如しなり)






昨日は参議院選挙の投票日でした。ぎっくり腰十日目、すぐお隣の小学校の投票所まで、ゆっくりゆっくりと・・・・。

投票を済ませてから、校舎の入り口にある金魚や熱帯魚をパチリ・・・

そして、校舎の軒下や庭などに、子どもたちが育てているトマトやキャベツ、朝顔やひまわりなど、校内に入らなければで出会うことのできない景色にカメラを向けて、パチリ・・・・。

今朝もセミたちが、いのちのかぎりの大合唱をしていますが、道路や道端にセミの抜け殻があちこちころがっています。

よくみると、校内の小さな木にも、立派なセミの抜けがらがありました。



かえりにちょっと「さんさん花壇」にも立ち寄ってパチリ・・・・。