延原時行歌集「命輝く」(第2455回)(ぶらり散歩―黒い蝶など)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2455回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。


    7月10日

            今日も我の歌十首

 一 今日も我御友神学至誠神称への歌を詠ふ嬉しも
 二 至高のや御神空に至誠とぞ称ふ御友や告ぐ「至誠なれ」
 三 御神や至高にいますのみならず至誠ならずば峻厳ぞのみ
 四 もしもぞや神性無自性ならずばやEsse Ipsum (存在自体)権力の元
   (備考:トマスはアヴィセナからEsse Ipsum(存在自体)を学びEsse Ipsum Subsistens (存続する存在自体)=神とせるは、哲学的神学史の有名なる事実なり。我此処に於いて両大家と異なれる見解なり。Esse Ipsumに代へて我、ホワイトヘッドのCreativityを形而上学的究極者として頂くなり。Creativityは、actuality/characterを欠如なすなりとホ氏言ふ故なり(PR, 31)。この点、仏教の空=無自性につながるなり。
“The primordial nature of God is the acquirement by creativity of a primordial character.” (PR, 344)ここにあるごとく、Creatiivity(創造作用ないし創造活動)はその性格付けを具現するものなくしては、現実者にはならざるなり。原初の性格付けを「神の原初的本性」と言ふなり。神は、創造作用の性格付けを具現するものなる限り、創造作用に「至誠」なるものなり。この場合「至誠」《loyal》とは、個別者が一般者に対する関係を指すなり(Josiah Royce, The Philosophy of Loyalty,参照)。創造作用が「普遍の普遍」《Universal of universals》(PR, 21)なる限り、具体者なる「神の原初的本性」はこれに至誠なる関係においてのみ初めて具現なすなり。即ち、簡潔に言はば、「神の原初的本性は創造作用に至誠なり」。この言明は、アヴィセナやトマスにおける「Esse Ipsumと神の同一視」の危険性を免るるものなり。危険性とは、Esse Ipsumを神の権力の源となす故なり。これに反して我「神Creativityに至誠なり」となすなり。かくして「神性に父至誠なり」(『マタイ』6・9)との真理、ホワイトヘッド形而上学からの論証なしたり)
 五 それ承けてそも絶対神ホ氏言ふや「不動の動者」歴史紊乱
   (備考:See PR, 342.「不動の動者」とは、アリストテレスの概念にして、宇宙の外の「固定的実在」なる神が宇宙内の一斉の物を「動かすもの」と見なすなり。これに反して、ホワイトヘッドは「神は世界の中にあるなり」とし、創造作用に至誠なる御方と見なすなり)
 六 この地球ヘイトクライム言ふ名のや病蔓延尊敬や死す
 七 悲しきや至る所に銃撃戦この上に核用ふなかれや
 八 されどもや御友静かに呼び給ふ「友よ」御神の声聴けやとぞ
   (備考:これ万人に尊敬すべき価値ありとのメッセージなり:『ヨハネ』15・15、熟読参照)
 九 かくてぞや御神至誠にましますと御友告ぐるや嬉し嬉しや
 十 人類(ひと)今やThis existsにや加へてぞloyally and reciprocally言はんかなげに
 





日曜日の朝、雨も上がって、セミの声もにぎやかです。六甲の山並みは雲の覆われていますが、洗濯物をベランダに干しても大丈夫のようです。

ぎっくり腰も十日目、本日は投票日ですが、投票所がすぐお隣の小学校ですので、そろりそろり、散歩がてらに一票を投じてこれそうです。

本日の写真は、昨日のぶらり散歩で撮ったもので、上は、「さんさん花壇」の薔薇と、住宅から50メートルほどの場所にある小さな公園に咲くリュウキュウアサガオです。



この公園で、「黒い蝶」をはじめて目にしました。少し大きめの黒い蝶がひらひらと舞い、木の葉にとまりました。

少し遠くから一枚撮って、静かにゆっくりと近づいて、三枚撮りました。

大きな黒い羽根で、付け根に赤みの斑紋があって・・・

あとで、パソコンで調べてみると、「ナガサキアゲハ」「アゲハモドキ」とかいろんな種類の「黒い蝶」があるようです。・・・

珍しい「黒い蝶」にであいました。


この公園からさらに50メートルほど歩くと、いつもの少し大きな子供遊園地があって、ベンチに座っていると、スズメたちが足元近くに、ひょこひょことやってきました。

座ったままで、数枚パチリ・・・そしていつもの花たちも数枚・・・。