延原時行歌集「命輝く」(第2441回)(滝沢克己協会関西支部「ご近所四人の寄り合い」)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2441回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。
日曜日の新しい朝、「御友神学」発見の歓喜の歌です。

    6月26日

   壮大や:(一)宇宙的主観原理「御友神学」発見の歌六

 一 壮大や形而上学見ゆるほど御友神学華やぐの秋(とき)
   (備考:形而上学の核心、25日の御友欣求の歌に詠ひたるごとく、『ヨハネ』17・5に明らかに提示されたるなり。すなわち、(1)太初の栄、(2)イエスの覚り、(3)父への、(4)祈りの連携にあり。(1)太初の栄は、父により天地が造られる前に御子に与へられしものなり(『ヨハネ』17・24も参照)。その意味で、栄光は内三位一体的栄光(神性)の極(父におけるまた子における)なり。この事情は、「ロゴス神と共に在りき」(『ヨハネ』1・1・第二項)と言はるる場合と同様なり。「共在」が神性なり。その両極が父、子なり。「共在」が個々の存在者と共に在る場合、「太初のロゴス」(『ヨハネ』1・1・第一項)なり。滝沢哲学においては(1)神人の第一義の接触ないし「インマヌエルの原事実、(2)イエスの覚りとしての第二義の接触、と見なさるるなり。イエスに於いて顕著なるは、(1)(2)が(3)父への(4)祈りの中で「栄光の輝き・華やぎ」=「復活」への移行が欣求されたることなり。(3)(4)の要因は、滝沢哲学には見られず。我に取りては、形而上学の醍醐味は、「原事実のイエスへの先行性」(滝沢)がイエスによりて父に祈り求められる中で「逆転」させられることにあるなり。イエスの祈り即ち「御友神学」なり。祈りの中でイエスによって「神学び」がなされ、「友よ」といふ呼びかけの下に我らに告げられるゆえなり(『ヨハネ』15・15、熟読参照)。
 二 即ちやホ氏言ふ主観原理ぞや宇宙の事と見しや如何と
   (備考:いわゆる「主観主義原理」《 subjectivist principle》を提示することで、デカルトは、ホワイトヘッドに言はせれば、「プラトンアリストテレスの時代以来最大の哲学的発見をなしたる人」なるなり。なんとなれば、彼は、「この石は灰色なり」《This stone is grey.》といふ経験主義的命題を提起し、その一般化を考慮することから形而上学がスタートすることのできる思惟方法を初めて詳論したる故なり。ただし、ホワイトヘッドはこの経験主義的命題をより一層正確な経験命題「この石が灰色であることの私の知覚」《my perception of this stone as grei》へと改善することにより、「改善された主観主義原理」《reformed subjectivist principle》を提唱せり(PR, 159)。
 我が新しき発見は、イエスの「あなたがたの天の父が完全(至誠)であられるように、あなたがたも完全(至誠)な者となりなさい」といふ命法(『マタイ』5・48)は、神の天(神性)への至誠心を示す「御友神学」として、宇宙の「主観主義原理」を明示したるものなり、と言ふにあり。
 三 かく見れば我言ふ御友神学や神性・父の主観原理ぞ
   (備考:我が至誠心の神学の第一原理「神は空に至誠なり」なり。空は、キリスト教では「内三位一体的神性」即Nichts(マイスター・エックハルト)と理解さるる故、第一原理を「神性・父」と詠ひしうえ、「その如く汝らも至誠なれ」との命法を告ぐる御友神学に「神性・父」の「主観原理」を我見出せしなり。御友神学が宇宙の主観原理成す事なしに「神性・父」我らに見る事叶はぬなり。これ我が今日の大発見なり)
 四 かく見れば主観原理を捨象せる神性学や真(まこと)にあらず
   (備考:「原事実を絶対客観真実と主張する」可笑しさを脱却なすためには、「主観原理」の学問的位置の確認必要なり。形而上学の究極的華やぎのためには、御友神学を必須の「主観原理」として認識・提言すること肝要なりとは、ここに我が哲学的神学的提唱なり)
 五 神性を冒険改変なすやこそ御友祈りの麗しき業
   (備考:再度以下の一節参照すべし:”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.” [AI, 295]宇宙におきて「御友祈り」は「冒険」なり。神性に、神と我らとの「ともあらはれ」(共同復活)への改変を欣求する故なり。形而上学に取りて「神性・父」を原事実として固定視すること、ホ氏は悪しき形而上学の道とせるなり。イエス父への「我を輝かせ給へ」との祈り(『ヨハネ』17・5)を捧げたる故にこそ、父彼と我らの復活をもって応へ給ひし。原事実のイエスに先行せしこと、今や御友の祈りによりて逆転され華やぎ(復活)あること、これキリスト教の福音なり。それなくば、宇宙人生に未来も救済も幸せもなし。御友神学の欣求此処に在り)
 六 而してや祈りに我ら容れられしともあらはれや誠恵みぞ
   (備考:ともあらはれ=its Unity of Appearanceこそ御友神学の終末論なり。何たる悦びぞ!)






上の写真は、神戸地下鉄「大倉山」で下車、神戸文化ホールと神戸中央体育館界隈をぶらり散歩で撮ったものです。もう「七夕飾り」もありました。

昨日は11時半から、この近くのJR神戸駅前にある「中国料理・天安閣」で、滝沢克己協会関西支部のご近所四人の寄り合いがあって、出かけてきました。

滝沢克己先生は、32年前の1984年6月26日(ちょうど本日が先生の御命日です)に急逝されましたが、先生の学恩をうけた関係者で1992年に「滝沢克己協会」がつくられ、年年歳歳、福岡と東京で集いがもたれてきました。

神戸では大震災の前(1994年)に関西支部の集いがありましたが、今回久しぶりに、協会メンバーのご近所(神戸ふたりと西宮ふたり)の四人が、昼食を囲んで3時間ほど、愉快な交流の時をすごしました。

九大時代の滝沢講義を受け、先生のご自宅を訪ねて滝澤ご夫妻との交流もあり、卒業後は「コープこうべ」の活動に打ち込み、定年後の今はコーラスクラブや自治会長など、ますます精力的に活躍中の方や、西宮にあるバプテスト教会・浜甲子園教会というちょっとユニークな教会ー「円卓礼拝」という実験的な試みを続けておられる「信徒代表」の方、そして今回呼び掛けていただいた関西大学の現役の方(フランクルやドイツ神秘思想などの研究で知られる)、四人四様、何とも面白い打ち解けたどこか響き逢う、稀有なひと時でした。

こうした寄り合いの場は、全国に散在する滝沢克己協会のメンバーたちの相互交流と研鑽の場づくりの、小さな試みとしても面白そうです。これを機に、新しい相互交流が始まりそうです。四人ともキリスト者でバプテスト派の方、ルター派の方などで・・・これに仏教徒の方やカトリックの方なども加われば、なお面白いですね・・・


ここでは、天安閣で撮っていただいた記念の写真と会場ちかくの湊川神社の境内の数枚を収めておきます。