延原時行歌集「命輝く」(第2440回)(イチジク・ウメ・キウイ、そして花たち)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2440回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

   6月25日

           御友欣求の歌六首の歌

 一 恩師はや原事実はぞイエスにや先行なすと言ひつ誤る
   (備考:恩師『仏教とキリスト教』(京都・法蔵館、1950年、1964年)書きて、神人の第一義、第二義の接触の区別論提言し、一躍論壇を牽引さる。第一義の接触ないしインマヌエルの原事実は、人の覚にせよ信にせよ、価値論的なる「観」即ち第二義の接触の成立に先んずることの道理を力説なさりたり。ここに宗教間対話の基礎据へ給へり。すなわち、第二義の宗教的現象には複数の「観」在るも、唯一の第一義の神人接触ありてこれらを支へる道理、宗教間対話の基礎理論なすとせしなり。問題は、滝沢理論では、「神と空」の二究極者の問題論及されざれしことなり。我が至誠心の神学では、これに反して、「神」は「空」(ただし、空は空自らを空ずる、自己無化「無自性」実在)に至誠なり、との提言なせり。簡単に「神」と「空」ないし「神性」(ただし、滝沢は詳らかに普通せざるも、神性は「三位一体の神性」《die inner-trinitarische Gottheit》としてNichtsなり(マイスター・エックハルト)とさるる点、仏教の「空・無自性」と並ぶなり)は同じく存在論的究極者なり、との予断許さぬものあり。神を宗教的=存在論的究極者と呼ぶならば、空ないし神性は、こう言ってよければ、絶対無論的究極者(注。西田の「絶対無の場所」を想起せよ)と言ふべきなり。しかも、キリスト教プロパーに於いても、『ヨハネ』17・5を見れば、イエスご自身は、滝沢と同様の、(1)太初の栄光、(2)これを覚る自己、の両義的観点を持することを明らかにしつつ、なほ(3)父への(4)祈りの、観点あり。滝沢の純粋神人論では、普通、(3)父への(4)祈りは興味を示されざる主題なり。要するに、イエスに於いては、父への祈りの契機が、原事実のイエスへの先行性の逆転の契機を秘めている如くである。この逆転が「復活」なり。滝沢には、「原事実」に比して「復活」の逆転的重要性への留意なし)
 二 彼これを「絶対客観」事実とすこれ言ふ自身主観なるにも
 三 イエスはや太初の栄覚りつつこれ輝かせ父よと求む
   (備考:『ヨハネ』17・5、熟読参照・原事実論に論及する際には、このテクスト必読の聖書原典なりとは我が確信なり。この点、恩師は原典フリーの観あり。聖書を離れても、原事実認識可能との自説の故ならむか。その結果、恩師の論拠はイエスと対立、ないし「イエスに縛られず」の立場なり。我が「御友神学」とはこの点立場異なれり。ちなみに、この聖句、「主の祈り」(『マタイ』6・9)の原典なりとは、我が確信なり。「主の祈り」とは「主が教へ給ひし祈り」《the prayer(s) which the Lord taught us》との意義ならず、「主の祈り給ひし祈り」《The Prayer which the Lord prayed for himself and therefore for us》の事なり。この事、キリスト教界では、いまだ公に知られずあり。嘆かわしき無識なり。かかる故にこそ、主の祈りへの応答として父彼を甦らせ給ひしなり。『へブル』5・7、熟読参照:「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のある方に、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞き入れられたのである」。いはゆる「主の祈り」は、それ故、祈ることによって、我ら信徒も(主イエスと同様に)甦らされると言ふ前提のもとにあるものなり。
従って、主の祈りの第一祷「天にまします我らの父よ、御名を崇めさせ給へ」(『マタイ』6・9)に言ふ「御名」は、「主イエスが父から与えられた御名」(『ピリピ』2・11、熟読参照)の意味でありて、単純に「父なる神の御名」には非ず。されど、父の御名でもあるなり、ただし、「父の御子への御名賦与=命名行為」においてなり。さう考へれば、英語で言ふ”Our Father in heaven, hallow be thy name.”は、”Hallow be thy naming.”の意味なり)
 四 この時や実在冒険求めつつあらはれ統一欣求し給ふ
   (備考:この辺りの機微言ひ表したるものにして、ホ氏の以下の一節ほどのもの無しとは、我が持論なり:”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.” [AI, 295]それを詠ひしが、この一首なり。実在冒険とは、原事実が原事実にとどまることなく、「輝かされる」さまに至らされることを祈ることなり。あらはれ統一とは、御友の復活と我らの復活の同時現象のことなり。宇宙に御友の祈り基本的冒険をなし給ひつつあるとは、『ヨハネ』17・5、『マタイ』6・9、『へブル』5・7、ホ氏『観念の冒険』原書295頁、共通の形而上学的認識なり)
 五 原事実イエスに先行するなれど祈り在りてや華やぎ世界
   (備考:華やぎ世界=復活宇宙なり)
 六 祈りとは宇宙の冒険原栄華やぎへとぞ我ら共にや
   (備考:祈り=冒険=華やぎ=御友「我ら共」なり)







昨日は、古くから利用して来た電話やパソコンの回線を、新しいところへ乗り換える作業がすべて完了し、設置されていたものも、御礼のお手紙を添えて返却して、コードなど入り乱れていたものもすっきりしました。メールアドレスも新しくなりましたが、万事順調にすすめばいいのですが・・・・。


本日の写真は、前にもUPした「イチジク・ウメ・キウイ」のいまを、いつものように、花やねこたちとともに収めます。