延原時行歌集「命輝く」(第2435回)(特急「ひだ」で「美濃加茂」まで・・・・)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2435回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

昨日は早朝より「新快速」と特急「ひだ」に乘って、10年前長寿・天寿で召された義母の記念会に出かけてきましたので、ブログをお休みにさせていただきましたので、今朝はまず、先生のメルマガ「風の便り」で届いた昨日の歌をおさめさせていただきます。


    6月18日

            大命の歌十二首

 一 我や知る我が大命や我妻の切れ目なき笑み詠ふにありと
 二 「本作る父さんやって」言ひし妻絶後笑み増し我や詠ふや
   (備考:2016年2月13日北越病院にて祖父江八紀ドクターの「何したい」との質問に応へて妻や言ひたり、「本作る」。而して我を振り返り、「父さんやって」と続けたり。その解や切れ目なき笑みにありたり。すなわち、3月11日朝、生涯の最高の幸せを我に謝しつつ笑みたる故我「何でや」と訊くも、「皆やって呉れる」と言ひたり。午前中に片桐医院に赴きたる後、昼餉を喉に詰まらせ絶したり。12日、自宅での前夜式終ㇸたる後、我真夜中に棺の蓋取りてみるや柔らかなる顔にて口丸めおりたり。而して13日告別式にてさらに絶後笑み増し認めぬ。
 三 内省の笑み零る妻最期の日まさか絶後の笑み増しまでも
   (備考:復唱)
 四 切れ目なき我妻の笑み告ぐるこそ生死一体いのち祝福
   (備考:復唱)
 五 いのちとは切れ目なき事ある日我深く諭さる我妻笑むや
   (備考:復唱)
 六 何があり何が無くとも我妻の切れ目なき笑み仕合せ泉
   (備考:復唱)
 七 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば
   (備考:復唱)
 八 我妻の切れ目なき笑み詠ひつや我尊くも御友邂逅
 九 『復活の省察・前巻』誠にや妻笑み詠ひ御友称へぬ
 十 此度の書『御友神学省察』や妻笑むありて成したるやこそ
 十一 いのちとは妻切れ目なく笑みたるを我切れ目なく詠ふ幸こそ
 十二 而してや幸や幸なり切れ目なき命の主はぞ御友なりせば


ただいま、先生のメルマガ「風の便り」の「今日の歌」が届きましので、早速ここにUPいたします。先生の「御友神学」の重要な省察の歌です。


    6月19日

            称名嬉しやの歌七首

 一 恩師はやイエスに縛らる厭いたりイマヌエルにぞ向かはむとてぞ
   (備考:『純粋神人学序説――物と人と』(福岡・創言者、1988年)、272頁、参照)
 二 されどこれ反語ならむや原事実縛らざるイエス産む恩師見し
   (備考:『ヨハネ』15・15正しくこの反語に合致せる直言ならずや。而して滝沢的反語、積極的には、以下のごとく表現されたり:「したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。まったく逆である。神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである」(同書同頁)。ただし、我が視点よりすれば、《神人学はその本来の内容として「特殊的・史的な形態への関係性」を内に持つ》と言ふべきなり。かく書けば、この「関係性」こそ我の言ふ「御友」なり。御友は、所謂「史的イエス」には非ず、「史的イエス」への原事実からの関係性なり。この関係性を滝沢は、次に、「あの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在」と言ひ表すなり。我が理解によるならば、この「神ご自身の表現点としての人間存在」は我の言ふ「御友」なるも、その発出源は我ならば「三位一体的神性」と呼び、滝沢のごとく「神ご自身」とは言はざるなり。なんとならば、古来ここにはヨハネ福音書のロゴス論の二重性が十分な論拠を提供せる故なり。すなわち、滝沢の言ふ「絶対的に偶然的な表現点としての人間存在」は「太初のロゴス」(『ヨハネ』1・1・第一項)のことなるが、その発出源は「神と共にあるロゴス」(『ヨハネ』1・1・第二項」なる書き方により、共在性が明示されたる故なり。このロゴスと父との共在性を滝沢は常に「神ご自身」と言ふ風に実体化=一元化するなり。この問題は先生と遠く1980年代初期往復書簡で詳論せり。我に取りてはこの「三位一体的共在性」はエックはルトの言ふ「神性」Gottheitにして、滝沢の言ふ(宗教的究極者としての)「神ご自身」には非ず、形而上学的究極者(その意味では、ホワイトヘッドの言ふ「創造作用」Creativityと同等)なり。この考慮滝沢になきなり。恩師におきては、究極者が二ならず、一元化するなり。我におきては、御友神学が太初のロゴスを通じて「神と共なるロゴス」がその共在性を顕す故、滝沢の言ふ「根源的人間存在」の徹底して関係的な姿において現出なすなり)
 三 げにもイエス太初栄光謝してぞや我輝かせ父よと祈る
   (備考:『ヨハネ』17・5、熟読参照)
 四 これこそや御友の姿現前よ栄に発しイエス至る道
 五 我ら人この道遡及イエスースクリストスああイマヌエル哉
 六 誠にや御友の愛に応へてぞ称名一途唱ふ嬉しや
 七 この道や御友と共に運ばれつ御父至るやイマヌエルアーメン
   (備考:イマヌエル=御友御父と共(ロゴス神と共《pros ton theon》『ヨハネ』1・1・第二項)なればなり)





「美濃のくに」の「美濃加茂」は「岐阜」「鵜沼」の次にあるまちで「日本ラインの川下りのスタート地点でもよく知られていまが、上の写真は、特急「ひだ」の車窓から撮りました。



梅雨の晴れ間、天候にもめぐまれ、たくさんの子や孫たちが長兄ご一家のお宅にそろい、義母の属していた中濃教会の小田部正一牧師によって「記念式」が執り行われ、近くの墓地に墓参、そして場所を変えて和やかなお食事会・・・さらに御家に戻って、夕方5時過ぎの帰路の特急の時間まで、父と母を偲ぶ愉快な時を過ぎしました。



上の写真は、お宅の前の枕木(長兄は国鉄マンでした)に乘った盆栽や木々、そして野菜など・・・・。


終りに、一昨日「ぶらり散歩」で撮った数枚を加えます。




そして一羽のハトとまるで死んでいるかのように眠りこけるねとちゃん…近づくと目を覚ましてきて・・・。もう一匹のめこちたんと・・・・。