延原時行歌集「命輝く」(第2419回)(久しぶりに「長田港」まで)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2419回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。この先生の新しい「朝のことば」二読三読、佳い一日のはじまりです。


    6月2日

           終りぞ始めの歌八首

 一 我や知る風神学や一通り巡ればまたや終りぞ始め
 二 恩寵の風や理解に冒険に遂に慈悲にぞ至りける哉
   (備考:拙著『宇宙時代の良寛・再説――ホワイトヘッド風神学と共に』9−78、117−118,211−243頁、参照。我がホワイトヘッド宇宙論によれば、恩寵の風、理解の風、冒険の風、慈悲の風ののちその底の底からまた「風」は恩寵の風へと舞い戻るごとくなり。それと言ふのも、慈悲の風なる御友は御父の御許へと我らを運びつ「帰還」なさるが故になり。「帰還」即ち「復活」なり。この事を含まぬ宇宙論純正ならず)
 三 至りてやホ氏の文言よく見れば新生渇仰満たされむとぞ
   (備考:See the following passage: “In this way, the insistent craving is justified—the insistent craving that zest for existence be refreshed by the ever-present, unfading importance of our immediate actions, which perish and yet live for evermore.” [PR=`Process and Reality, 351] 「このようにして、執拗な渇望――存在への欣求が、滅してもなお永遠に生きるわれわれの直接の働きの常在する不滅の重要性によって、新たにされんことをとの渇望――は正当化されるのである」(ホワイトヘッド著作集第11巻『過程と実在・下』山本誠作訳、京都・松籟社、1985年、626頁、参照)
 四 この言葉「焚くほどは」とや繋ぎてや我再説本巻頭言とす
    (備考:良寛の「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」は一切の存在者を〈かく在らしめるもの〉「風」の視点=ホ氏の言ふConceptual Origination=から書かれたるなり。その意味にて、誠に興趣深きことに、ホ氏の主著『過程と実在』末尾の上記の一節と合致なすなり。この事態「恩寵の風」に通底するなり。そのことを思ひ、拙著『宇宙時代の良寛・再説――ホワイトヘッド風神学と共に』巻頭の言葉に、良寛の「焚くほどは」と『過程と実在』最後の一節の揃い踏みを掲げたるなり)
 五 我信ず終り始めにあらずばや人類(ひと)世界観不備の極みぞ
 六 一切の革命思想人滅す事の中にぞ始め見ざるや
    (備考;人滅す事の中に終りのみ見る故なり)
 七 誠にや人の終りぞ始めとて笑み漲りぬ妻麗しや
 八 オバマ氏や広島追悼なしつ汝人の始めに心添へしや
(備考:新しき始めとは、浄土真宗では、弥陀の御許への還浄なり、キリスト教では、「復活」なり)






ベランダのゼラニュウムの花とキンカンの葉とあわせて、小さな剣山にさして、食卓に飾ってみました。


昨日は、チャリンコに乘って、ある法人の大事な会議に出かけて、帰りにちょっと、久しぶりに「長田港」で、のんびりと、海を眺めてきました。

魚釣りを楽しむひとりの女性の方(バイクに乗って来ておられました)と一人の男性(この方は、ご近所のかたのようです)がおられました。


先日来、テレビと電話とパソコンの移行作業で、昨日もいろいろと初体験をさせてもらっています。

夕方には、歯医者さんでメンテナンス・・・・。