延原時行歌集「命輝く」(第2338回)(ぶらり散歩―こぶしも咲き始めました)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2338回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(243−5)いよいよやの歌、葡萄パンの歌、さちの歌、幸ひはの歌、延原信子生涯完成の歌、実にの歌、飛翔の歌、歓びぞこれの歌、深夜我の歌、時と言ふものの歌、生死心の歌、主の羊飼ひの歌、笑む妻の体の歌(2016年2月11日〜20日

    2月15日
           飛翔の歌八首

 一 妻世界詠ひてこそや我が世界これぞ誠や本作る味
 二 我佳境酔ひて詠ふもひそとして人方の声聞かず清らや
 三 かにかくに人は思へど我妻の切れ目なき笑み御友脈々
 四 先達やイエス見つけし泉へと心至るを回心名づく
   (備考:八木誠一『回心 イエスが見つけた泉へ』東京・ぷねうま舎、2016年,227-228頁、参照:「『父なる神』とは超越的な統合の場(『場』は比喩である)そのもののこと、『子なる神』とは『統一の場のはたらき』のことである。この場合、世界ではたらく神はロゴス(世界のなかではたらく統合作用)、人間のなかではたらく神はキリスト(各人のなかで自覚される統合作用)、イエス(統合作用を典型的に表現した人物、すなわち典型的な『自己・自我』として生き、『神』を啓示したがゆえに、律法主義者によって十字架につけられた歴史上の一人物)が区別される。
 ついでながら、ロゴス、キリスト、イエスは仏教の三身論、法性法身、報身(阿弥陀仏)、応身(ゴータマ・ブッダ)に対応する。結局、『復活のキリスト』とは『自覚された自己』のことで、その内容は人のなかではたらく『統合作用』(神の子)である。こう理解した場合、キリスト教は、単なる自我の営為となり終わって地球を崩壊に向かわせている現代人に対してこそ説かれなければならない真実となる。説かれるべきことは、イエスが説いたメタノイア(回心、こころを入れ替えること、つまり主体の交替)にほかならない。それはイエスが見出した泉から飲むことであり、そうすれば泉の水脈は仏教にまで続いていることも見えてくるはずである。」)
 五 これ誠イエスや告げし神の国我がうち生ける復活主とぞ
 六 ただ妻や内に主を見るのみでなく絶後笑み増し飛翔御友と
 七 何がぞや嬉しと言ふも切れ目なき我妻の笑み見しほどぞなし
 八 飛翔とは御友界のぞ今やこそ天父界への帰命なりけり

       ♯              ♯

今朝も上の歌(2月15日)に加えて、先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    3月12日
         つくづくとの歌十二首

 一 つくづくと宇宙二重と悟りたり我妻永生輝きて告ぐ
 二 我妻や永生楽し麗姿をば夢に見し我心爽やか
 三 爽やかと言ふべきぞかや或ひはや心火照ると書くべきか我
 四 爽やかに心暖む姿こそ永生雄姿妻ぞ麗し
 五 一切の嘆きの声を撥無せる輝きぞあり歓喜滾々
 六 二年前今日のこの日に笑み増して往きし我妻津波聞きしも
   (備考:2014年3月11日午前中、東日本大震災三年目のTV「津波報道」やありし。妻それ聞きしや)
 七 最高に仕合せやとぞ言ひし妻「何でや」と我「皆やって呉れる」
 八 我思ふ皆と言ふはや看病かはたまた葬儀本作りかや
 九 皆は皆全部含めて皆は皆我が成すすべて謝すや我妻
 十 何にせよ此度夢にぞ現れて颯爽とぞや歩む妻佳し
 十一 いそいそと天父御許に歩みゆく妻が雄姿を惚れ惚れと我
 十二 やがてぞや我もその道歩まむと心に期する嬉しや嬉し

新しい朝、今朝の日の出です。

昨日は、先生の歌のとおり「延原信子師二周活」、「東日本大震災五年」の一日でした。

春の甲子園の試合日程も決まりました。地元の長田高校の応援に出かけねばなりません。


我が家の白菜の花も満開です。

昨日のぶらり散歩では、今年もこぶしの花が咲き始めているのを発見!  春を告げています。



昨日は一日中、ひんやりとした一日で、野良ネコちゃんたちも、仲良く寄り添って暖まっていました。



そのほか昨日の花たちを並べます。連日UPしていますが、アンズのつぼみも少しずつ膨らんできています。