延原時行歌集「命輝く」(第2388回)(梅の花がちらほらと)
延原時行歌集「命輝く」(第2388回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(238−5):御友風聖別の歌、文や認むの歌、御友神学一陣の風の歌、今日の日はの歌、降誕節の歌、続・文や認むの歌、御友よの歌、拙英文稿の歌、夢に見しの歌、不思議の歌、御友風の歌、今将にの歌、「それ」の歌(2015年12月21日〜31日)。
12月25日
降誕節の歌四首
一 友よとぞ呼びて我にぞ天父のや至誠告ぐかた御友降誕
二 友よとぞ呼ぶ者のぞや無きやこそ冷へし心のテロ向かふとき
三 冷へしとや言ふべき心近代の価値護らんと空爆なすに
四 パリの人いかにテロまたありとてもこの如く生く言ひしや見事
(備考:佐伯啓思「反・幸福論:第五十八回:文明の『驕り』が生み出す『野蛮』」(『新潮45』2016年1月号)に以下の文言あり:「もしも日本がISの無差別テロにあえば、全面的にISとの対決に入るほかありません。凄惨で嫌な戦いになることを覚悟するほかありません。しかしそれは自由・民主主義という文明の普遍的価値を守るためというよりも、『われわれ』自身を、つまりは日本と日本人を守るためです。
だが、別のやりかたはないのか。パリのテロの直後に、あるフランス人が次のようなことを言っているのをニュースで見ました。『私たちは、どれだけテロに攻撃されても、どれだけ犠牲者がでても、またこのスタジアムに来てサッカーを観戦し、同じようにレストランでワインを飲み、同じようにコンサートにいきます。それがテロに負けない、ということなのです』と。
こうした一種のガンジー主義を実践することはたいへんなことです。『対話』も不可能、『戦争』もしない、となれば、これしかありません。もしも、『われわれ』が悲しげなまなざしを向けながら、多くの犠牲を堪え忍び、淡々とガンジー主義を実践できれば、われわれは自由・民主主義などという『普遍的』価値よりも、はるかに重要で崇高な価値を世界に示すことになるでしょう。」(362頁))
12月26日
続・文や認むの歌二首
一 イエスにや縛られず言ふ恩師のやアポリア解けぬげに御友見ゆ
(備考:小野寺功先生御書簡への返書12月13日付:「拝復 10月31日付御芳書誠に有難う存じました、心より厚くお礼申し上げます。さらに御高著を拝読し、遂にそれに学びながら新しい一書を綴り居りました:『良寛「風の歌」にちなんで――御友神学の省察』と題します。懇意の新潟・考古堂書店においてもう出版に向けて動いていただいて居ります。
此処に、目次、はしがき、第一章:風の歌にちなんでーー御友神学の省察、第二章:良寛の「愛語」とボンヘッファーの「倫理」をめぐって、第五章:至誠心の神学から御友神学へ、を感謝と共に同封させていただきました。
御高著の表題にございます「西田哲学から聖霊神学へ」というモチーフは、どうも私の場合、「空(エコ)への神の原至誠→自覚的至誠」(A)から「汝らも至誠なれとの神による招喚・命法(ゾエ―)」(B)への繋がりと同一の事態である様に感じられて仕方がありません。
第二章第一節(十)命の絆論に書いている通りであります。
第五章において恩師滝沢先生のインマヌエルの原事実論(不可分・不可同・不可逆説)の再検討を書かせていただきました。こうした結果、私の神学ーー仏教(今度の場合は良寛禅詩歌学)との対話神学ーーは、上からの目線の教義学とは著しく性格を異にして御友(みとも)神学と相成りました。
それが奇妙に良寛の「風の歌」と相性がよろしい。そして、良寛の(道元から学んだ)「愛語」を人倫の元にすえる、後近代国民国家の政治学の構想「自由、民権、愛語」にまで延びて参りました。お笑い下さい。
国の宝の歌三首:
一 自由とや民権のみか愛語こそありてこそなり国の宝よ
二 愛語はや慈心愛心ありてこそ出ずるものなり仏道極み
三 モスレムも家族なるやと呼びかけしオバマ氏や善しこれ愛語なり
益々寒き年の瀬 御自愛御祈り申し上げます。 右、お礼方々 草々不一
2015年12月13日 延原時行拝
小野寺功 先生」
二 我やしも御友神学その調べ頷き給ふ声になごむや
(備考:小野寺功先生御返書12月17日付:「暖冬とはいえ、この頃はきびしい寒さが続いています。そちらは今頃は雪かなと推測しておりますが、お変わりございませんか。
先日は「良寛「風の歌」にちなんで、御友神学の省察」と題する論考をお送りいただき、誠に有難うございました。
早速に拝読し、「至誠心の神学」からの新展開を画する内容であることを知り、心底から深く共鳴するところがありました。
従来「御友神学」的内容は、ほとんど話題にもならぬ程忘却されて参りましたが、良寛の愛語に導かれて、その本来の意義が掘り起こされましたことは、大いなる業績です。私の聖霊神学が大拙の日本的霊性を媒介して可能になったことと相通じるものがあると思いました。
日本において「二究極者の問題」は真の意味で解決されていませんが、唯一学兄の「至誠心の神学」は、その核心的解決に迫っていると思います。日本最深最大のキリスト者であり新井奥邃は、儒教とキリスト教を結びつけ、「至誠」を聖霊論的に解釈しておりますが、それとも深く結びつくところがあります。
確かに御友神学の位相は、滝沢先生のインマヌエルの神学を継承しつつ、純粋神人学を補完する独創的内容を含むものです。
滝沢先生の業績は、キリスト論から聖霊論への橋渡しをした点にあると私は考えています。私たちの世代はこれを一歩進めるところにあります。
今この先端的課題にとりくんで成果を挙げているのは、八木誠一さん門脇佳吉神父さんと学兄の三人で、共に「働く神」の神学の広場に到達していると思います。
しかしその本格的展開と評価は、今後にかかっています。「御友神学」の成果を期待しています。
私はようやく生涯かけて求めてきた神学上のアルキメデスの支点がようやく確立しましたので、ここから歴史哲学の問題を展開し、敗戦後の歴史体験を整理したいと考えています。
敗戦後、「真相はこうだ」というラジオ放送を聞いてきました。それは戦前と真逆なものでした。第三の道があると模索し続けてきました。今後とも御指導下さい。 とりあえず御礼まで
12月17日 小野寺 功
延原時行様」
御友よの歌五首
一 近代や石油神としむさぼりぬ何故愛語知らざりしかな
二 現代や原爆とテロあびせしや何故御友知らざりしかな
三 御父より聴きし事皆汝に告ぐ御友の時代始まりぬ今
四 この時代普遍相対原理のぞ御父宇宙や具体慈悲げに
(備考:See PR, 351)
五 がリラやの基教の調べ今や聴け:
Love neither rules, nor is it unmoved; also it is a little
oblivious as to morals. It does not look to the future;
for it finds its own reward in the immediate present,
the Great Friend!!! (See PR, 343)
愛支配せず、不動にあらず、それ道徳や少しく忘る、
それ未来を見ざる、なぜならば愛や只今の現在に
報ひ得たるやーー御友よ!!!
♯ ♯
今朝も上の歌(12月25日と26日)に加えて、先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。
1月22日
核無知極みされどの歌十五首
一 人類の無知極まるや核問題使はば破滅されど持ちたし
二 核持たば法源成すと思ひきや空神至誠これぞ法源
三 核法源あらずば誠何なるや保有や呪ひ懺悔なすまで
四 地獄とは頂上奪取せるもぞや其処離るるや得せず縛らる
五 されど我いのち恵まる無条件我妻笑みて示せしや如
六 切れ目なき我妻の笑み告ぐるこそ生死一体いのち祝福
(備考:復誦)
七 何故に命核にて守らむかいのち歴々風ぞ持てくる
八 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後笑みます御友いませば
(備考:復唱)
九 畢竟や核守るとは今生ぞ妻笑み示す永久のいのちぞ
十 命をば守る言ひつつ「獣を撃て」核投下なす文明怖し
十一 核文明七十年をば見し我ら米生命観怪しと観ず
十二 空爆にふるさと破壊されしまま怒るIS流民入欧
十三 いのちとは切れ目なき事ある日我深く諭さる我妻笑むや
(備考:復唱)
十四 我妻の歌詠む毎に我がいのち永久なりとぞや悟る嬉しも
(備考:復唱)
十五 初春や妻と共なる一書また出だす思へば胸震へけり
(備考:復唱)
昨日は大寒、ご近所の梅の木もつぼみが膨らみ、美しい花がちらほらと咲き始めています。
上の写真は、私たちの住宅の中庭の花壇の小さな梅の花です。
一昨日のカメラのお隠れ騒動でお騒がせいたしましたが、昨日は市場の方にも落とし物にカメラはありませんでしたか?とお尋ねしてしてみたり・・・。
結局昨日は馴染みのお店で、失くしたカメラと同じカメラを買い求めて、早速そのカメラで撮ったものが、本日の写真です。安価なカメラでも、やはり使い慣れたものはいいですね。(お店の近くに美味しいめし屋さんがあってお昼ご飯をいただいて大満足!!)
中庭から今度は小学校横の私たちの「さんさん花壇」もパチリ・・・
(昨日は新調のカメラを手にしてうれしくて、ぶらり散歩もあちこちに伸びて、たくさんカメラに収めましたが、今回はここまでのUPでおわります)