延原時行歌集「命輝く」(第2368回)(元日の山登り)

             
  延原時行歌集「命輝く」(第2368回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」(236−5)御友神学の歌、日ノ本順法の歌、御友神学本二方の歌、御友の歌の歌、日ノ本活人生の歌、妹背二人三脚の歌、一書脱稿の歌、賜物の歌、うたたねの歌(2015年12月1日〜10日)。

    12月5日
          日ノ本活人生の歌十首

 一 日ノ本や平和憲法法源に原爆超へて「神Ecozoics」見よ
   (備考:「神Ecozoics」とは、空(エコ)に神至誠まします故にこそ至誠なれとの命法(ゾエ―)やあり、との謂いなり。これ我が地球の形而上学書きしものなり:See my article: "Divine Ecozoics and Whietehead’s Adventure or Resurrection Metaphysics” for Open Theology 2015; 1: 494-511. 無論、日ノ本の事超ゆ。しかれども日ノ本の哲学者西田幾多郎の基本思想「絶対無の場所」エコロジーの基礎に据えたる形而上学なり。地球の友に発信せり。これ核体制超ゆる世界観打ち出せるなり。今の「イスラム国」と欧米ロの空爆対テロの難渋、世界のエコロジー内の苦渋と見るも、我「神Ecozoics」の世界観に立てり)
 二 かくあれば今の世界の苦渋をや見つつ勇躍活人生ぞ
 三 活人生何よりも是世界観確固たるべし核超ゆるほど
 四 日ノ本や「愛語」の地をぞ良寛に見出し往けや憲法用ふも
 五 戦後のや日ノ本教育何や軸平和憲法地の思想欠く
 六 我や見る人倫の元憲法に見るや如きぞ日ノ本あはれ
 七 道元の書きし「愛語」を良寛や日ノ本地のぞ人倫となす
 八 異国(ことくに)の与へし憲法人倫の元述ぶ書とや取る国悲し
 九 憲法や人倫の地やありてこそ国の法をや述ぶるものなり
 十 「愛語」とぞ「神Ecozoics」をぞ結びてや日ノ本の国活人生あり

      ♯              ♯

今朝も上の歌(12月6日)に加えて、先生のメルマガ「風の便り」に届いた「今日の歌」を納めます。

   1月2日
          主よとの歌一首

 一 過ぐる年愛する人を送りしと文ありし方慰藉たまへ主よ

          我覚るの歌二十二首

 一 我覚る核超ゆべしや新時代御神至誠に頭垂れてぞ
 二 真理はや抗い難く誠なりただ狂気がぞ「獣撃て」言ふも
   (備考:ト氏「獣を撃て」と叫び広島・長崎に原爆投下せり)
 三 余程のや「獣撃つ」獣心ありてこそ核の投下や可能なりしも
 四 「獣撃つ」獣心のなくばぞや核時代そもあり得ざるなり
 五 獣心や基教絶対主義にして「代置の宣教」言はれたるなり
   (備考:相手国の宗教文化を基教によって代置せんとの宣教学、ユリウス・リヒター(ベルリン大学宣教学教授)唱道せり。ルーズベルト米大統領はこの立場なりしりも、彼の死後トルーマン氏これを継承せしなり。20世紀後半より、キリスト教絶対主義は反省され、宗教間対話・文明間対話の時代に入れり。このうち、仏教とキリスト教の対話はことに重大なる展開を示せり。「神と空」なる二究極者の問題を契機にしたるなり。神は宗教的究極者なるも、空は形而上学的究極者なり。我はここに、「至誠心の神学」なるこの問題の解法「四原理」を提言,せり:①神は空に至誠なり;②空は空自らを空ず(注。大乗仏教の根本理論なり);③神は宇宙において我々被造物に至誠心を喚起することを得、かつ現に喚起する、唯一の御方なり;④神の至誠心を見て、汝らも同様に至誠なれ、と弟子たちに命ずる御方は、「父から聴きしたことを皆、友よと呼びつつ、汝らに告げし故、汝らはもはや僕にあらず」(ヨハネ15・15)と言ひし御友なり。この提言においては、神と空とは、創造的対話の関係に於いて在るなり。注目すべきは、②の空(無自性)の理論が新しきキリスト教理解において、内在的に重要になりたるところなり。そのことにより、キリスト教に取りては、三位一体の関係性の深み(Perichoresis=循環)が「仏教的空」と同定され得るといふ、新事実が創発する。小野寺功教授が、三位一体の於いて在る場所として、西田の言ふ「絶対無の場所」を位置づけ、「於いて在る」を「聖霊神学」の契機ととる立場は、右の同定の著しき事例であると言へよう(『西田哲学から精製神学へ』横浜・春風社、2015年、参照)。ここにおいて重要なることは、GHQの日本に対する対処の仕方は、まずは「日本国憲法」の日本国への、独立以前の施与をはじめとして、専ら「代置の宣教学」Missiology of Replacementの概念によって営まれてきたことであらう。而してそのことの動因は、原爆投下が「平和憲法」のあたかも法源ででもあるかのごとき取り方(米国による、また日本の政府・国民による)にあるなり。ここにおいて、我が至誠心の神学の方法は、法源観(第一原理)、法源の源観(第二原理)、命法観(第三原理)、および命法の宣言者観(第四原理)において、著しくユニークなるなり。我をして語らしむるならば、米日関係は、敗戦以来、明らかに「旧いキリスト教神学=キリスト教絶対主義」の範型に基づいて構築されたるかの如くなり。ところが、神学の先端においては、新しい「包括主義」Inclusivismや「神中心主義」Theocentrism(この場合神中心主義の「神」とは父なる神であって、包括主義の主体「包括者」がキリストであるのと対照的なること重要なり)が現場の理論なり。要するに、神学の現場から言ふならば、日米の政治状況は、あまりに旧式なるなり。そういうところから見ると、我が至誠心の神学は、最先端の神学理論なり。さらには、我が最近の英文論考”Divine Ecozoics and Whitehead's Adventure or Resurrection Metaphysics," Open Theology 2015; 1: 494-511.は、特殊に日米政治論を中心に論ぜるものに非ずして、地球エコロジーを端緒にその全体を包む「神のEcozoics」を論じたるものなるも、全体構想が未来的なるものなり。拙英文稿が、何分Open Theologyを通じて世界公開(オンライン・オープンアクセス)中である故、その影響は日本からにはあらず、地球から地球に及ぶ如くなり。我が「核体制を超ゆる地球新時代」を揚言するのも、あながち的外れではあるまい。一例として、我が友人Herman Greene博士(president of Center for Ecozoics Societies, former executive director of International Process Network)は、我が”Ecozoics of the Deity"観に対して最近”It's powerful!"と高評価せるごとくなり。要するに、拙論の場合、米国の、GHQ以来の、日本に対する「いわば12歳の少年扱ひ」は著しく妥当ではありえざるなり。米国の最も著名な神学院と大学院大学にてD.Min.及びPh.D.取得の哲学教授の資格において、我が理論は、世界的オンライン神学誌Open Theologyを通じて、世界的見識を示すものとして、高評価されたうえ、公開されたるなり)
 六 三回目核の投下やありとすや地球文明そも滅亡す
 七 なぜならば代置の宣教荒れ狂ひ対話奪ふや暴虐の里
 八 核投下無きなれどもやイラク戦米の蹂躙甚だしきや
   (備考:ブッシュ政権石油争奪戦に、9・11自作自演の準備して臨めり。あられもなき姿なりき。そののち、米シェール石油、シェールガス潤沢にて、イラク戦夢のごとくも、中東に怒り残せり。それ此度パリテロにて炸裂す)
 九 要するに空爆在りて法源となすや神なき所業なりけり
 十 この所業真似たるは誰ほかならぬ「イスラム国」ぞ米の鬼子や
 十一 日ノ本や原爆あるも生きたるは空に至誠の神信じてぞ
 十二 これこそは西田哲学にじみたる無への誠の在りてこそなり
 十三 敗戦後日ノ本に無し「パリテロ」や「参りました」の一語のみ
   (備考:これ武士の国なればなり。剣術で負ければ一語「参りました」ぞ。蒸し返し、テロに持ち込む心根や大和心にげにもなきなり)
 十四 空にぞや神至誠ます覚へてや大君と民国造りかな
 十五 焚くほどは風が持てくる落ち葉かなそも国造り落ち葉如くに
 十六 米や知れ平和憲法順守せる我ら心は核ならず無ぞ
 十七 原爆教恐れありしが遂に我絶対無にや還帰嬉しや
   (備考:「我」日本国全体の集合的我なり)
 十八 とにかくや法源原爆あり得ざる空に至誠の御神やこそそれ
 十九 原爆の惨禍経たるや日ノ本や無の叡智もて立ち上がれいざ
 二十 核落とし勝利者然と米国や「神Ecozoics」のぞ実践智なし
 二十一 世界のぞ運命なるや勝ち国の驕れるままにあるやなし知れ
 二十二 それただや悲惨底より甦り喜びてこそ神祝し給ふ




新しい年の元日は、先ずはブログのUPをゆっくりと・・・。

そしていただいた年賀状に目を通した後、暖かな日和に誘われて、高取山に登りました。


風もなく、歩き始めてすぐにセーターも脱いでの「ぶらり登山」・・・。

上の写真は、出発した後、新湊川あたりのスズメちゃんと道路わきにきれいに輝いているハナミズキです。


今回も「西山公園」経由の好みのコースです。このスタート地点からほぼ1時間近くをかけて、おめあての「安井茶屋」をめざして登ります。


本日の写真は、たくさんの落ち葉を踏んで、少々険しい上り下りの道をゆっくりと・・・多くの鳥たちの鳴き声を聴きながらの森林浴です。


本道と合流する「白川大明神」のところまでは、上り下りする登山者は一人もなく・・・。

ここには登り路のスタートから「白川大明神」までを撮影順に並べます。

途中、三度ほど休憩場所のベンチに座って水を飲んで・・飴をひとつ。





「白川大明神」で本道と合流のあとは、多くの老若男女の登山者と行き交います。

元日早々何か事故でもあったのか、救急ヘリらしきヘリコプターが二機、大きな音ををたてながら飛び続けていました。

このあたりから市街地を眺めてひとやすみ・・・・。



ようやくお目当ての「安井茶屋」へ到着。

馴染みの茶屋のおじさんと新年のご挨拶・・・。

大きなストーブのそばで、おでんとビール・・・次々と客人があって・・・

茶屋を出て、山頂に向かいました。(本日はここまで)



茶屋の掲げられていたこの絵は、どうもわが故郷の「大山」のようです。