延原時行歌集「命輝く」(第2357回)(冬至の朝の日の出、ワンちゃんなど)

               
  延原時行歌集「命輝く」(第2357回)
復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(235−4)秋の日や佳しの歌、日ノ本やの歌、歓喜驚きのうた、秋の朝佳しの歌、我が推敲の歌、さてもさての歌、歓喜妻汝の歌、今日の日やの歌、御友道の歌、愛語響くの歌、本作り燃ゆの歌(2015年11月21日〜30日)。 

    11月24日
          秋の朝佳しの歌六

 一 誠にや一睡もせず新稿を書き上げたるや秋の朝佳し
   (備考:昨日の朝新発田良寛会会長星野淳雄氏に新稿「良寛の『愛語』とボンヘッファーの『倫理』をめぐって」お手渡しせり。気持ちよかりき。暖かき秋の朝なり)
 二 慈心のや愛心生みて愛語なる日ノ本の幸香しきかな
 三 良寛や元の誓ひの姿成る嬉しかりしぞ愛語切々
 四 これを我御友神学仏教版言はんとせるや心底より
 五 我妻や絶後笑み増す不思議やも御友いますやげにも告ぐるや
 六 それをしも何と言はんか「笑み増して語るや仄とげに愛語」ほか

       ♯              ♯

今朝も上の歌(11月24日)に加えて、先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    12月22日
         文や認(したた)むの歌二首

 一 先達のご高著上梓祝ひてや文や認むげにも嬉しや
   (備考:小野寺功先生宛、2015年10月26日付我が書簡に書けり:「9月13日付御芳書、御恵贈の御高『随想 西田哲学から聖霊神学へ』誠に有難う存じました。心より厚くお礼申し上げます。
 有難い御言葉を『風の便り』9月中旬号に賜り誠に恐縮に存じました。有難う存じました。
 御高著はゆっくりじっくり拝読いたしました。何と言っても年月をかけて日本の哲学ーーことに西田哲学ーーを日本神学創出に向けて腰を据えてお書きになったもの、満喫いたしました。幾多の著者の思索を読み抜いて綴ってこれれましたもの、さながら日本現代哲学史の通覧でありつつ、それらに先生独自の「聖霊神学」創出の御探求が主体的にあわさり、とても興味尽きざる読後感であります。
 私は日本国の憲法は、日本国の哲学思索が物語として成立していない所では、書かれ得ない、ーーことに前文は書く土壌・背景がそもそも欠如している、と、永く確信して来たものでありますが、御高著こそそれに相応しいと感嘆いたしました。ーーその焦点が「聖霊神学」の形成であります。
 三位一体の於いて在る場所ーーそれが西田の「絶対無の場所」であると言う御考究は、私は私独自のエコロジー的関心から申しまして、世界的に独一無比に存じます(英文稿、”Divine Ecozoics and Whitehead's Adventure or Resurrection Metaphysics" presented at Claremont, June 4-7, 2015; soon to appear at Open Theology online)。それと申しますのも、人々は「世のエコロジー」を論じ、新しい文明は"an Ecological Civilization"であると賛同しつつも、それが何であるかと言うと、「世のエコロジー」が成り立つための不可欠の前提・根拠である「神のエコゾイックス」については何も考えていないのですから。それは後者成立の不可欠の場ーー即ち西田の、絶対無の場所ーーを露知らぬからであります。
 さて、先生は我が恩師は、絶えず原点指示を成すものの、自覚の成ることのプロセスが無い、ーーと批判明示されました(292−293頁)。
 これは何故なのか?
 恩師は、純粋神人学は、インマヌエルの原事実に向かうが、史的に具体的なイエスの姿には「縛られない」、それを内容としてはそもそも含まぬ、ーーと生涯の最後に明言されました(『純粋新人学序説』272頁)。
 此処に判明いたしました。恩師にとって重要なのは、認識上原点であるが、原点とイエスの関係については、明確な考察なしと。これではそもそもキリスト教信仰の真理性が明らかにされ得ません。私は断然、その関係は認識以前、すでに存在的に「御友である」(ヨハネ15・15)と明言いたします。この明言が英文稿の中軸でもあります。
 そもそも「イエスはキリストである」という告白は、「イエスは御友なり」としてイエス御自身が明言されました。
 御友は、宇宙の繋辞そのもの、ホワイトヘッドに言わせれば、《Reciprocal Relation》 (PR, 351)にてまします御方です。原点だけではキリスト教は成り立ちません。原点だけではそれを認識する者の独壇場と成ります(滝沢の様に「イエスに縛られない」ならば尚更です)。否も応もなく「御友」がいます事程確実な事は有りません。これが「滅して不滅」(We perish and are immortal.[PR, 351, 82])とホワイトヘッドが言う所以であります。
 宇宙の一般観は成立した途端に御友によって修正厳密化される、と私は最近ヨハネ15・15とマタイ5・48によって知らされました。両論が無くてはなりませんが。
 御高著に深謝しつつ、最近の愚作ーー「風の便り」十月中・下旬号、英文稿ーー同封させていただきました。   御礼方々 早々不一
 2015・10・26   延原時行拝
 小野寺 功先生」
 二 三一の「於いて在る」場所絶対無これ我言ふや「空神至誠」
   (備考:小野寺功先生、2015年10月31日付御書簡:「十 主の平安  先日はお便り並びに「風の便り」、英文の長大な御論文を御恵送下さり、有難うございました。拙著に対する深い御理解と論評は肌身に沁みました。
 私の哲学的神学の根幹である「三位一体の於いてある場所」の意味を的確に受けとめて下さり、これが何より有難いことでした。
 「於てある」が「至誠にいます」であることの御指摘は、その通りであると思います。
 私の「三位一体の場の神学」と聖霊神学に「至誠心」の神学が導入されることによって、さらに日本の神学として具体化されるように思います。そしてさらに「対話論神学の地平」が開かれていくものと確信致します。
 「基教二つの道の歌十首」にある「我見るに基教二つの道やあり原爆教と「神Ecozoics」なり」という歌に啓発され、かねてから気になっていた武田恒泰氏の「アメリカの戦争責任・戦後最大のタブーに挑む」を買い求め、読了しました。
 そして深く共感するところがありました。
 私は大学院生の頃H・デュモリン師について、「聖アウグスチヌスの神国論」の研究をしたので、歴史哲学や国家悪の問題に深い関心があります。
 そして私が中三の頃、学徒動員で川崎に来ていて、はげしい爆撃を受け、それが民間人を焼きつくす無差別のものであることを経験しました。その結論が原爆投下です。
 戦後七十年日本は審かれ、謝罪してきましたが、今後は公平な「神の国」の歴史解釈が不可欠です。そのためのアルキメデスの支点の追求が「西田哲学から聖霊神学へ」の道の追求でした。次が「京都学派の歴史哲学」で、その問題に迫ろうと思います。
 「御神や空に至誠にましてこそ至誠なれとぞ御友告ぐるや」
この意味が本当によくわかります。
また(三位一体の神の)「原至誠」は(自覚的至誠であり、さらに)自覚の促しであり、聖霊神学に三面がるとの御指摘も実に啓発されます。
 今、田辺の歴史哲学と取りくんでいますが、田辺は聖霊神学を志向していることがよくわかって、西田・田辺・鈴木亨と展開する方向性を開拓しようと思います。田辺の死・復活の思想には日本の神学としての聖霊神学に資する点があるように思います。
 英文の論稿は、時間をかけて読むつもりです。
                 とりあえず、お礼まで。
 十月三十一日       小野寺 功
 延原時行様」






冬至の朝、日の出と高取山です。きょうも暖かな一日のようです。

昨日午後は、一年ぶりにお顔をみせていただいたお客様があり、2時間ばかり打ち解けた語らいを楽しませていただきました。

ルオー展に出かけられたおりのお土産に数枚の絵を頂きましたので、その一枚――ジョルジュ・ルオー<キリストと漁夫たち>1947年頃:Collection of Shiodome MuseumーーをUPさせていただきます。



昨日はまた「安心・しあわせネットワーク」より農園で育てた白菜と大根を、わざわざ玄関まで届けていただきました。ありがたいことです。



昨日のぶらり散歩で、愛犬を連れた方と仲良しになり、写真を撮らせてもらいました。このワンちゃんは生まれた時から足が不自由で、いま14歳だそうです。「ワンちゃんものがたり」にはほっこりさせられました。よい飼い主に出会って幸せそうな小さなワンちゃんでした。


もう一匹のワンちゃんは堂々とした犬で、写真を撮らせていただくと、大変喜んでくださいました。


幼いころ、犬を飼っていましたが、あれこれその幼い時の思い出がよみがえってきました。

そしてまた、むかし仮設住宅の時に犬を飼っていたころのあれこれのことどもを思い出されて・・・これはちと悲しい思い出ですが・・・。