延原時行歌集「命輝く」(第2330回)(戦争法廃止兵庫県民集会ーみなとのもり公園・市内パレード)

            
  延原時行歌集「命輝く」(第2330回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(232−8)燦二つの歌,一巡りフォトの歌、実録推敲の歌、人生はの歌、今朝も又の歌年、歓喜切れ目なしの歌、まさかとやの歌、基教二つの道の歌、信子凄しの歌、夢見たるの歌、またまたやの歌、対話嬉しきの歌、有難きかなの歌、この時代の歌、昨晩やの歌、妹背本作りの歌(2015年10月21日〜31日)。

    10月28日
          対話嬉しきの歌三首

 一 先達の思索の跡を辿りてや対話なすほど嬉しきはなし
   (備考:9月13日小野寺功先生よりご芳書あり、深謝無尽も:「9月11日発行の「風の便り」は、米国の原爆投下の核心問題に触れていて、深い感銘を受けました。武田恒泰氏の著書を読んだばかりでしたので、心をゆさぶられました。基督教絶対主義的宣教学に対する「対話論神学」の意義を再認識させられました。「至誠心の神学」の登場の時ですね。
 若い頃の暗中模索の論考をまとめてみました。未熟なものですが、目次のみでも眺めていただければ幸いです。延原神学に一番近いのは、日本では私かもしれませんね、9月13日 小野寺功
 延原時行様」 御返事、10月27日付:「9月13日付御芳書、御恵贈の御高著「随想 西田哲学から聖霊神学へ」誠に有難う存じました。心より厚くお礼申し上げます。有難い御言葉を「風の便り」九月中旬号に賜り誠に恐縮に存じました。有難う存じました。
 御高著はゆっくりじっくり拝読いたしました。何と言っても年月をかけて日本の哲学ーーことに西田哲学ーーを日本神学創出に向けて腰を据えて御書きになったもの、満喫いたしました。幾多の著者の思索を読みぬいて綴って来れれましたもの、さながら日本現代哲学史の通覧でありつつ、それらに先生独自の「聖霊神学」創出の御探求が主体的に併さり、とても興味尽きざる読後感であります。
 私は日本国の憲法は、日本国の哲学思索が物語として成立していない所では、書かれ得ない、ーーことに前文は書く土壌・背景がそもそも欠如している、と、永く確信して来た者でありますが、御高著こそそれに相応しいと感嘆いたしました。ーーその焦点が「聖霊神学」の形成であります。
 三位一体の於いて在る場所ーーそれが西田の「絶対無の場所」であると言ふ御考究は、私は私独自のエコロジー的関心から申しまして、世界的に独一無比に存じます(英文稿”Divine Ecozoics and Whitehead’s Adventure or Resurrection Metaphysics” presented at Claremont, June 4-7, 2015; soon to appear at Open Theology online参照)。それと申しますのも、人々は「世のエコロジー」を論じ、新しい文明は”an Ecological Civilization”であると賛同しつつも、それが何であるかと言うと、「世のエコロジー」が成り立つための不可欠の前提・根拠である「神のエコゾイックス」については何も考えていないのですから。それは後者成立の不可欠の場ーー即ち西田の、絶対無の場所ーーを露知らぬからであります。
 さて、先生は我が恩師は、絶えず原点指示を成すものの、自覚の成ることのプロセスが無い、ーーと批判明示されました(292−293頁)。
 これは何故なのか?
 恩師は、純粋神人学は、インマヌエルの原事実に向かうが、史的具体的なイエスの姿には「縛られない」、それを内容としてはそもそも含まぬ、――と生涯の最後に明言されました(『純粋神人学序説』272頁)
 此処に判明いたしました。恩師に取って重要なのは、認識上原点であるが、原点とイエスの関係については、明確な考察なしと。これではそもそもキリスト教信仰の真理性が明らかにされ得ません。私は断然、その関係は認識以前、関係存在的に「御友である」(ヨハネ15・15)と明言いたします。この明言が英文稿の中軸でもあります。
 そもそも「イエスはキリストである」という告白は、「イエスは御友なり」とイエスご自身が明言されました。
 御友は、宇宙の繋辞そのもの、ホワイトヘッドに言わせれば、《Reciprocal Relation》(PR, 351)にてまします御方です。原点だけではキリスト教は成り立ちません。原点だけではそれを認識する者の独壇場となります(滝沢の様に「イエスに縛られない」ならば尚更です)。否も応もなく「御友」がいます事程確実な事は有りません。これが「滅して不滅」(We perish and are immortal.[PR, 351, 82])とホワイトヘッドが言う所以であります。
 宇宙の一般観は成立した途端に御友によって修正厳密化される、と私は最近ヨハネ15・15とマタイ5・48によって知らされました。両論が無くてはなりませんが。
 御高著に深謝しつつ、最近の愚昨ーー「風の便り」10月中下旬号、英文稿ーー謹んで同封させていただきました。御礼方々 草々不一   2015年10月26日          延原時行拝
 小野寺功先生」
 二 この道や恩師辿りて原点と示せるやこそ吟味往かむも
   (備考:前掲小野寺著、292−293頁:「滝沢の「インマヌエル論」の具体化である『仏教とキリストっ教』(法蔵館)によれば、神と人の第一義の接触kは、ラーナーの「超自然的実存規定」と同じように、キリスト教徒であろうとなかろうと、無条件に自己成立の根底に所与として与えられているという。
 しかし実際には、日常的にすべての人がこの「原事実」にめざめ気付いているわけではない。多くの人は、人生の矛盾や限界状況に直面して、種々の挫折を経験し、はじめて第一義のインマヌエルへの開眼がおころ。これが宗教的生のはじまり、ないし回心である。そしてこの事は、第二義の接触といわれる。
 その場合滝沢が強調するのは、神と人の関係が「不可分」「不可同」「不可逆」であるということで、これはイエスと基督との間でも例外ではないとされる。
 そしてさらに滝沢神学によれば、キリスト教も仏教も、それは第一義の原事実をもとにした第二義の接触の二つの異なった自覚形態なのである。滝沢のこのような解釈によって、仏教とキリスト教は、はじめて対等な「開け」の場所に立ち、本格的な対話が可能になってきたと考えられる。これは確かに滝沢神学と固有名詞をつけて呼ぶに価する画期的業績である。
 しかし私の立場から見るならば、滝沢のインマヌエル論は、西田と同じく自己と世界成立の根底を正確に把握し、西田をキリスト教の側に乗りこえているにもかかわらず、その著作のほとんどが原点指示に終始しており、自覚の深まりゆくプロセスを無視する傾きがあると思う。
 またもう一つの問題点は、滝沢自身晩年しきりに問題にした「イエスはキリストである」という場合の「である」という繋辞契機についてである。彼はこの脈動点の重要性をよく認識していたと思われるが、繋辞の論理を三位一体の場所の論理として総合的に捉えていなかったために、単なる説明に終わっているところがある。」参照)
 三 我やしも「原点/イエス」御友とぞ明らめらるるこの日嬉しや
   (備考:「/」(スラッシュ)が御友なり。純粋神人学によれば、イエスは第二義の接触なり、我はその前に、それが出てくる前に、御友いますと言ふなり)

       ♯              ♯

今朝も上の歌(10月28日)に加えて、先生から届いた「今日の歌」を収めます。

    11月24日
          秋の朝佳しの歌六

 一 誠にや一睡もせず新稿を書き上げたるや秋の朝佳し
   (備考:昨日の朝新発田良寛会会長星野淳雄氏に新稿「良寛の『愛語』とボンへッファーの『倫理』をめぐって」お手渡しせり。気持ちよかりき。暖かき秋の朝なり)
 二 慈心のや愛心生みて愛語なる日ノ本の幸香しきかな
 三 良寛や元の誓ひの姿成る嬉しかりしぞ愛語切々
 四 これを我御友神学仏教版言はんとせるや心底より
 五 我妻や絶後笑み増す不思議やも御友いますやげにも告ぐなり
 六 それをしも何と言はんか「笑み増して語るや仄とげに愛語」ほか



昨日の「勤労感謝の日」の午後は、神戸震災復興公園「みなとのもり公園」で開催された「戦争法廃止兵庫県民集会」に参加してきました。

この公園は三ノ宮からポートライナーに乗って最初の駅「貿易センター」下車すぐの場所にあって、広大な芝生の公園になっています。

大震災の時を刻んだ神戸港駅の時計や「しあわせはこべるように」の楽譜付きの歌碑などあって、花とみどりの市民広場になっています。





今朝の神戸新聞にも大きく写真入りで報道されていますが、弁護士と学者たちの呼びかけに応えて、雨模様の中を県下から若者・学生たち(SEALDs KANSAI)や市民500人余りの人々が参集して、1時間余りの集会のあと、神戸市役所を経て神戸大丸前まで、延々とパレードをしました。間もなく12月には「神戸ルミナリエ」も始まります。