延原時行歌集「命輝く」(第2281回)(ぶらり散歩―まちのお寺:「浄土真宗・金楽寺」)

            
  延原時行歌集「命輝く」(第2281回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(227−6)この機にぞの歌、地球法源窮の歌、麗しやの歌、復活内観の歌、昨日やの歌、古稀フォトの歌、原爆教超ゆる神の歌、地球神学四原則の歌、御復活の道の歌、過日もやの歌、驚きぬの歌、嬉しもの歌、甦り「主も我も」の歌、心友げにもの歌、今日の思ひの歌、稀の歌、やはりぞやの歌、この秋やの歌、歓び尻上がりの歌、有難きかなの歌、時代最大問題の歌、いささかの的の歌、揺らぐことなしの歌、あと三頁の歌、げに新時代の歌(2015年9月1日〜10日)。

〇(9月6日)嬉しもの歌四首

   英文稿二篇書きてや神至誠我称へしや誠嬉しも

   これにてや原爆教に蔑(なみ)されし御神至誠輝くやこそ

   我妻や絶後笑み増し岸辺の主共往く幸や言ふことやなし

   妹背共御神称へて御友共甦る道歩むや嬉し

   人如何に悲惨なるとも裏からぞ神共にます見れば微笑ぞ
   (備考:復唱)

        復活や隘路なしの歌十二首

   復活や無明の我ら御友喚び飛翔なすこと得しめらる幸

   もしもぞや御友なくばや如何にして深き淵より甦るらむ

   我妻や最期の時を迎ふとも嬉しい父さんおおきにねとや

   なんでやと訊きし我にや妻応ふ「皆やって呉れる」泰然自若

   我妻や絶後笑み増す嬉しさや御友に在りて天父往く幸

   今生と絶後の間にぞ御友見ずこれぞ無明ぞ汝懺悔せよ

   如何にぞや無明烈しくあらむとも汝至誠たれ御友祈りぬ

   御友のや御祈りにぞや乗りて往く飛翔やこれぞ甦り道

   原事実史的イエスやあらうとも両つ繋ぐや御友なりけり

   両つをば繋ぐ御友の見へずはや神人学の隘路なりけり、
(備考:重要テキストこれなり:「それに対して、純粋な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導するが、しかし束縛されはしない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルトと共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対うう的に不可分・不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。まったく逆である。神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである。」滝沢克己『純粋神人学序説』福岡・創言者、1988年、272頁参照。これに反して、御友は父から聴きてすべてを我ら具体的史的存在に語り掛けつつ、「友よ」と呼び給ふなり(ヨハネ15・15、熟読参照))

   我妻や皆謝し絶後笑む道や誠一途や隘路なぞなし

   今生と御国繋ぐや御友こそ如何で隘路の憂ひあらむも

        二論の歌二首

   自らは動くことなく諸形態動かしめんとこの論や不可   (備考:滝沢純粋神人学、アリストテレス「不動の動者」に似る)

   御友はや神に等しき座を下り我らに語るケノーシス生く(備考:ケノーシス=遜り。ピリピ2・6-11、熟読参照。因みに、ホ氏「冒険」論や、私見によれば、「ケノーシス」論なり。以下重要テキストなり:”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.” [AI, 295])


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今朝も上の歌(9月6日)に加えて、先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。誠に感慨深い喜びの「今日の歌」です。


       〇(10月6日)英文稿校了すの歌八首

   英文稿for Open Theology校了す檜舞台にいざや登場(備考:表題は次の如し:"In Search of a Contemporary World View / Contrasting Thomistic and Whiteheadian Approaches / Research Article / Tokiyuki Nobuhara  Keiwa College, Japan tnbhara@cocoa.ocn.ne.jp / Divine Ecozoics and Whitehead’s Adventure or Resurrection Metaphysics”)

   世界のぞ形而上学神学のオンライン誌や我招じ入る

   思へばやAARにセミナーを開設せしや三十年(みそとし)昔(備考:米国宗教学会(AAR)にSeminar on "Process Thought, the Nishida School of Buddhist Philosophy in Comparative Perspective"開設したるや1985年なりき。Prof. Francis H. Cookと共に共同座長七年間務む。Prof. Joseph Brackenも20名の会員の一人なりき。此度はブラッケン氏大いに導き手になり給ひたるなり。深謝無尽!)

   かくありてこれある日をば見んとてや時代画する学術稿ぞ

   地球のぞエコ境界を超ゆるもの「神Ecozoics」我詳論す

   政経も軍事も超ゆる命法ぞかくて明らめたるや嬉しも

   のみならずいかな悲惨のありてもや復活御友います論じぬ

   我妻の絶後笑み増し読みぬきて此処に至るや摂理なるかな









上の写真は、新しいデジカメで撮った、昨日の夕焼けとまちのお寺:「浄土真宗・金楽寺」です。


今朝も半袖ではチト涼しく、澄み切った快晴の日和です。

古い歴史を刻んでいるこの寺は、私たちの地域(むかしは「村」)の中核を担っていて、村の自治活動の実質的なセンターともなっていました。

早いもので、このまちで生活を始めてまもなく50年になりますが、当時もよくこのお寺の本堂をお借りして、各種のまちづくりの催し物をしてきましたが、いまはまちづくりが進んで、新しい公民館や集会所がつくられて、お寺との関りも少なくなりました。葬儀なども、いまではこの本堂はほとんど使われなくなっています。

20年前のあの大震災では、大きく痛みましたが、現在は立派に修復ができています。いつもまちの人に開かれている境内は、ぶらり散歩に立ち寄る場所として最適です。


昨日はちょうど、本堂の前に据えられている「親鸞像」のお化粧直しがおこなわれていました。

しばらくここで時を過ごして、「蓮如上人像」などを撮りましたので、ここに収めます。

この後、まちの真ん中にある「地域人権交流センター」に立ち寄って、現役のスタッフお二人と、11月28日に予定している「第5回地域人権シンポ」の取り組みの様子など、ゆっくりお聞きしたりして・・・。