延原時行歌集「命輝く」(第2277回)(ぶらり散歩ー薔薇・猫・ザクロ)

            
  延原時行歌集「命輝く」(第2277回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(227−2)
この機にぞの歌、地球法源窮の歌、麗しやの歌、復活内観の歌、昨日やの歌、古稀フォトの歌、原爆教超ゆる神の歌、地球神学四原則の歌、御復活の道の歌、過日もやの歌、驚きぬの歌、嬉しもの歌、甦り「主も我も」の歌、心友げにもの歌、今日の思ひの歌、稀の歌、やはりぞやの歌、この秋やの歌、歓び尻上がりの歌、有難きかなの歌、時代最大問題の歌、いささかの的の歌、揺らぐことなしの歌、あと三頁の歌、げに新時代の歌(2015年9月1日〜10日)。

       〇(9月2日)地球法源窮むの歌十五首

   この秋や英文拙稿二篇出ず孰れも地球法源窮む(備考:"The Problem of the Two Ultimates and the Proposal of an Ecozoics of the Deity” and “Divine Ecozoics and Whitehead’s Adventure or Resurrection Metaphysics in Tandem with Ryokan”)

   画期的意義や奈辺にあるやそも法源原爆超ゆるものなり
(備考:何となれば、我の窮める「神Ecozoics」は世界のエコロジー超ゆる故なり。原爆は世界の領域内における究極兵器の投下に過ぎず。なお、上記英文拙稿二篇内にて我「原爆」に言及せず。我の言及なすは、「世界のエコロジー」に対してなり。「原爆」は「世界のエコロジー」の埒内に所属すべき問題なり。「神Ecozoics」及び法源の問題はそれを超ゆるものなり)

   米国の原爆投下最大の目的何ぞ法源獲得(備考:武田恒泰『アメリカの戦争責任ーー戦後最大のタブーに挑む』(PHP新書)に言ふ、「一、ソ連に対して優位な立場に立つため 二、マンハッタン計画費用を正当化するため 三、ルーズベルト政権で作られた『空気』 四、人道精神の欠如 五、人種差別意識」の五点にもまして《六、基督教絶対主義宣教学の「原爆」による実証による地球支配の法源獲得》が重要なりと我思ふ)

   「獣にはや獣としてこそ対処なす」ト氏の言ひしは偽宣教ぞ(備考:この侮蔑的観点は、もともと、基督教絶対主義的宣教学に由来するものなり。日本の神道をはじめとする他宗教に対して侮蔑的観点から対処なす場合、基督教絶対主義によりて他宗教を「代置」するタイプの宣教学を前提とせり。ユリウス・リヒタ―その代表者なり。ジョン・カブ著、拙訳『対話を越えてーーキリスト教と仏教の相互変革の展望』(京都・行路社、1985年)、40頁参照。この「代置」《replacement》の宣教学こそ、日本占領の際、米国が採用せる統治方式なり。占領下において日本国憲法(いわゆる「平和憲法」)をGHQが日本政府に施与せるは、一般の政治学者や憲法学者は認知せざる如くなるも、神学・宣教学の観点からすれば、明らかに「代置の宣教学」の実践なり。現在、「代置の宣教学」は時代遅れなり。「宗教間対話」(ことに仏基対話)の宣教学の時代なればなり。米国による広島・長崎への原爆投下の問題は、旧式の基督教絶対主義的宣教学の枠内において生起したことを、我々は知るべきなり)

   法源や原爆にして地球上獣を空爆これ米基教(備考:「獣を空爆する米国」の姿は、日本全土への絨毯爆撃と広島・長崎への原爆投下にも、ベトナム戦争時の空爆にも、イラク戦争にも、ISへの空爆にも、見らるる如し。その際、この行為を正当と看做す法的根拠、法源は何処にありや。「基督教絶対主義的宣教学」(ないしはそれを体現せる米国政府の判断、またそれに追随する国連安保理等の判断)にあると見らるるなり。現在の対話論神学の見地では、全くのアナクロニズムなるも)

   この基教宗教対話なくしてや時代領導今や不可能

   仏基のぞ対話在りてぞ法源や「空神至誠」「至誠なれや」と(備考:我が至誠心の神学によれば、四原理あり:①神は空に至誠なり;②空は空自らを空ず;③神は宇宙において我々被造物に至誠心を喚起することができ、また実際に喚起する御方なり;④この神をかかる御方として見、かつそのごとく至誠なれと呼びかくは御友なり。至誠心の神学は「至誠なれ」との御神の命法を一切の法の法源とみなすなり。従って、一切の法の法源は、「原爆投下」と言う物理的強制力・破壊力にあるなどと言ふことは一切必要なきなり)

   かくしてや核文明や神至誠仰ぐ御友に抑へられんや

   地球上御友神学華やぎて天上へとぞ甦り往く

   我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す   (備考:復唱)

   要するに核体制の基教はや地上空爆なす性(さが)やあり(備考:同様に絶対主義的基教に似たる「他国殲滅意識」持てる国あるならや、ここにも地上空爆の性(さが)あるなり。それ故にこそ、宗教間対話ますますこの時代に緊要なり)

   我ら知る仏基対話の中からや空神至誠新基教出ず

   しかしてや「神Ecozoics」ありてこそ平和憲法法源やあり

   知るべしや平和憲法裏事情原爆教や偽法源

   我が二篇世界の識者論ぜんとなさる秋ぞや将に来にけり

        麗しやの歌二首

   我妻や絶後笑み増し麗しや反論やなし蔭すらもなし

   近き神信じて笑むやいかばかり岸辺の御友佑くありてや

       ♯              ♯


今朝も上の歌(9月2日)の歌に加えて、先生のメルマガ「風の便り」で届いた最新の「今日の歌」を収めます。


       〇(10月2日)文明三態の歌六

   文明に三態在りや第一や原爆投下偽宣教ぞ

   第二態玉砕文明慰霊をぞ厚くなすこと仕来りなるや(備考:佐伯啓思氏「反・幸福論第五十五回:安倍談話の本当の意味」に書けり:「医学生として終戦を迎えた山田風太郎は、8月28日の日記に次のようなことを書き付けています。アメリカは何が「平和な法治国」であるものか。連合国は強大な軍備をさらに拡張しているではないか。それは、彼らの道義を貫くにも武力が必要だからだ。日本も再び武力を確保する必要がある。だが、今は、日本はただちにアメリカに報復すべし、という人が充満しているが、これが十年もすればどうか。いま考えるのもおかしいような「アメリカの真理」の中に日本は溺れつくしていることひろであろう。自分は予言するが、自分だけはこの予言の外にありたい、という。
 確かに、山田の予言通りになりました。70年もたてば、「戦後レジーム」からの脱却を唱えていた安倍首相の談話によって、本当に「戦後レジーム」が完成してしまったのです。別に安倍首相を難じようというのではありません。それこそが「戦後日本」だったのです。日本人の思考様式が「アメリカの歴史観」のなかに溺れつくす、ということで。す。それに多少でも抗するものがあるとすれば、それは、70年前、日本には日本の道義があり、それが不完全で独善的であったとしても、その道義のために悲惨な戦いを経験し、語るのも無残な死へと追いやられていった無数の死者たちの思いを引き受けるという以外にはないでしょう。」『新潮45』2015年10月、366頁参照)

   第三態ホ氏言ふ悲劇美の文明復活形而上学や成す(備考:ホ氏書けり:”At the heart of the nature of things, there are always the dream of youth and the harvest of tragedy. The Adventure of the Universe starts with the dream and reaps tragic Beauty. This is the secreat of the union of Zest with Peace: –That the suffering attains its end in a Harmony of Harmonies. The immediate experience of this Final Fact, with its union of Youth and Tragedy, is the sense of Peace. In this way the World receives its persuasion towards such perfections as are possible for its diverse individual occasions.” [AI, 296])

   真実や原爆文明続かぬよ広島長崎エコ界の声

   教皇やLaudate Si(主を称へます)出だしてやIntegral Ecology呼び掛くるあり
(備考:本年6月18日、教皇フランシスコ回勅出だせり。これに呼応し、米国の恩師John B. Cobb, Jr., For Our Common Home: Process-Relational Responses to Laudate Si (Process Century Press)刊行せり)

   さらにもや「神Ecozoics」をぞ我書きて世のエコロジー包み往けとぞ(備考:"Divine Ecozoics and Whitehead's Adventure or Resurrection Metaphysics" for Open Theologyなり)










昨日午前中、雨が激しくなる前に、ぶらり散歩も兼ねて、いつもの市場に出かけました。上の写真は、その時の数枚です。

ブログをはじめたときに、写真をどうして収めるのかもわからない中、12月の神戸ルミナリエの夜の写真を撮りたくて、三宮で1万円ほどのデジカメを求めました。

以来ほぼ毎日、デジカメをポケットに「取材」に出かけてきましたが、もう半年ほど前から、レンズに汚れがついたり、バッテリー切れが早くなったりして、そろそろ買い替え時を迎えています。

昨日と違って今日は秋晴れの一日のようですから、チャリンコに乗って、いきつけのお店をのぞいてみようと思っています。


本日の写真は、上に収めた午前のぶらり散歩のときに顔を合わせた猫ちゃんと蝶々などと、夕方のぶらり散歩で撮った雨に濡れた薔薇やムラサキシキブなどを収めます。

そして数日前に撮ったザクロの未掲載分も添えて置きます。