延原時行歌集「命輝く」(第2258回)(ぶらり散歩―サッカー場のあたり-ーびっくり!<ヒトツバダコ>)

            

  延原時行歌集「命輝く」(第2258回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(225−4)宇宙真中の真の歌、黙々の歌、朝毎にの歌、御友尊しの歌、今朝もまたの歌、地球の法の歌、米国やの歌、ふとの歌、文明論の歌、我妻や燦の歌、脱皮の歌、開眼新たの歌、朝餉の祈りの歌、何ともやの歌、原爆神学の罪の歌、楽しの歌、道や明らむの歌、我見しの歌、「神Ecozoics」あらましの歌、昨日もの歌、国甦るの歌、妻も祖国もの歌、世の国やの歌、朝夢にの歌、朝からやの歌、別問題の歌、事の次第の歌(2015年8月11日〜20日)。

       〇(8月14日)脱皮の歌二十五首

   昨日も詠ひし如く地球のぞ法や正しく「神Ecozoics」
(備考:神神根底(Eco)に至誠なる故に、かえって逆説的に、被造界に至誠心=命(Zoe)=を喚起し給ふとの理「神Ecozoics」地球の法なり)

   御神や神根底に至誠ゆえ逆説的に世を招喚す

   而してや神根底ぞ空にして空に至誠の御神こそ喚ぶ

   しかるにや新教召命(Beruf)基とし文明形成ひた走りけり
   (備考:「神Ecozoics」に較ぶれば新教今少し深みなき基教なり)

   而してや文明形成励むとは邪教殲滅含みたるなり
   (備考:これ恐るべき偽使命感なり)

   されど今佛基対話の時代にて空に至誠ぞ御神なるや   (備考:これ仏教的空とキリスト教的神の「対話」の解法なり)

   原爆を投下なしたる原理はぞ邪教殲滅旧き神学

   基督教絶対主義の理や旧しや旧しアナクロニズム

   米基教佛基対話を通じてや「神Ecozoics」へと脱皮せしなり
(備考:「地球の法の歌」第十首備考、熟読参照。See my 2015 essay "Divine Ecozoics and Whitehead's Adventure or Resurrectiton Metaphysics in Tandem with Ryokan" I delivered at the 10th International Whitehead Conference “Seizing an Alternative: Toward an Ecological Civilization” at Pomona College, Claremont, June 4-7, 2015; See also my 2011 paper “The Problem of the Two Ultimates and the Proposal of an Ecozoics of the Deity” I delivered at the 8th International Whitehead Conference at Sophia University, Tokyo, September 26-29, 2011: The latter paper will be published in Roland Faber and Santiago Salbodsky, eds., Conviviality: Prospects and Challenges for Peace in a Multireligious Community [Lexington Books, forthcoming])

   我如き者に共通善賞賜りし珍事一重に「神Ecozoics」ゆえ
(備考:2013年秋:September 9-12、ポーランドはクラカフ大学にて第九回国際ホワイトヘッド学会開催されし際、我「生涯に亘るホワイトヘッド学への貢献のゆえに」最高賞The Common Good Award授与されたり。何たる名誉ぞ。愚妻「よかったなあ」と携帯に声寄す。これより彼女「仕合せやなあ」と時にひとりごちたり、最期の日まで)

   我が理法「神Ecozoics」肯(うべな)ふや神学新道実にも実にもぞ

   気がつけば原爆投下理(ことわり)や旧き神学絶対主義ぞ(備考:第二バチカン公会議(1962~1965)以来悪評高き所謂Christian Absolutismなり。以来、新しき宗教間対話神学にては、包括主義(Inclusivism)、神中心主義(Theocentrism)が有力なり)

   地球のぞ法やいまこそ何あらう「神Ecozoics」我が理法なり

   原爆の投下今こそ誠にや神学根拠甚(いた)く薄弱

   かかること国際政治論者たち一顧だにせずいと不思議なり   (備考:国際政治学聊か遅れたる学問の如し)

   おそらくや平和憲法なるものも原爆投下の跡ありてこそ
(備考:跡とは「安保条約」の威力のことなり。されど真実や、この如き惨禍人類繰返すべからず、との覚りありたるなり)

   知るべしや原爆保持の国家群旧き神学保持せるやこそ
   (備考:共々に米国と旧神学の傲慢さを競争せんとや?)

   実際に使へぬ核を持ちてこそ人類呻吟いと哀れなり

   三度目に用ひて米国成せしごと大惨禍欲す罪人や誰

   汝らは罪抱えてや御国往き何を御神に申し開くや

   来世を考へもせず地球をば搾取に搾取なすや罪人

   地球の法「神Ecozoics」なる故に人間主人非ざるを知れ

   遅れたる国際政治何故ぞ地球の法を露知らぬぞや

   無智のまま知者の顔せる偽善者が我が物顔に通りゆく

   無謀なる真珠湾から廣島や長崎至る罪人我ら
       ♯              ♯

今朝も上の歌(8月14日)の歌に加えて、メルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

       〇(9月13日)何処方への歌八首

   エマオにて主は御姿を消し給ふ何処方へとや父子ひらけへと

   消ゆるとはそも何故なるか父子ひらけなべてを包み超ゆる故なり 

   我妻や絶後笑み増し往きたるや包まれゆくを示したるなり

   ホ氏がぞや「滅して不滅」言ひたるも包まれゆくを言はんとせるや
   (備考:"We perish and are immortal.” [PR, 351, 82])

   個体あり不死の世界へ翔ぶぞなし瞬時包まるこれ飛翔なり 

   飛翔とは底の底がやひらけの場御父へひらけ往くこそを言ふ

   我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:復唱)

   主イエスがぞ陰府へ下れば下るほど引き上げ給ふ父や在るなり
(備考:これ使徒信条の真実なり。父子ひらけとは、かくのごとく、絶対矛盾的自己同一なり。これヨハネ1・1・第二項に言ふ「言は神と《共に在りき》」のダイナミックスなり。このダイナミックス第一項に言ふ「太初に言ありき」の絶対の背後にある事情なり。恩師のインマヌエルの原事実論は、後者のみによって語られたり。元々、「太初に言ありき」だけでは、世界の根底の意味は在るも、「インマヌエル」の意味未だなし。「インマヌエル」の意味や前者とつながりて初めて生ず。人が滅して存在の底(原事実)からさらにその底へと下るとき、もはや個的存在ではなく、存在の底のその底(その否定)なるが故、人を底から支える御子のひらけにおいて在るなり。ところが、御子のひらけは御父のひらけと《共にありき》と言はるる、絶対矛盾の自己同一ダイナミックスにおいて在るなり。これが復活のダイナミックスとして、滅したる人を包み往くなり。この消息は、滝沢インマヌエル原事実論では、解明され得ざるなり。原事実がさらにその底へと突破(=陰府下り、ルター式に言へば、「地獄落ち」)されぬ故なり。底の底に「御子のひらけ」在るなり。これ、「御父のひらけ」と矛盾的に相即なすなりーーそれを《言は神と共に在りき》と言ふなり。我妻信子の絶後の笑み増しは、この消息への無限の感謝・無限の喜びを表すものなり。しかるがゆえに、我これを「宇宙愉快」と呼ぶなり)

        尊きやこその歌七首

   この世をば去りて御国に往くでなし去るや否やぞ包まれ往くよ

   我妻や生涯最高幸せを我に謝したるまま笑み往けり

   そこにぞや一切包む御友ぞや既にいまして岸辺の主なり

   これはぞや今生御国切れ目なく滅して不滅誠笑みなり

   我妻や絶後笑み増し往けるはや御国今生包むこと指す

   御国とは死を呑み尽くす勝利なり衆生無辺誓願度なり   (備考:第一コリント15・55、熟読参照)

   誠にや我妻絶後笑み増しの示せる真理尊きやこそ

        嬉しきとてやの歌三首

   我にとり嬉しきとてやこれ以上あることやなし「皆やって呉れる」

   皆や皆今生滅す不滅在りそれ示すこと誠皆なり

   人として語り合うべき事をぞや語り合いたる妹背嬉しも

   日ノ本の歌に詠ひてなべてぞや伝ふ信仰妹背ともども
(備考:なあ、ノーちゃん。そう、父さん。嬉しい嬉しい。その声、天から聴いてるで。おおきにね) 








本日の写真は、ヴィッセル神戸のホームグラウンドのある、美しい広場です。

近くには鐘紡病院(現在は神戸百年記念病院と改名)があり、広場の中には、若き日神戸で生活を始めたころもまだ走っていた懐かしい市電が置かれていたり、大きな芝生のある運動場など、市民の憩いの場所になっています。







何度もここは歩いていますが、このたび初めて『木霊祭』と彫られた石を見つけました。ひそと埋められた小ぶりのものですが、神戸木材協同組合が平成15年10月8日に「木霊祭」を執り行われ、「50周年記念植樹」をされた場所のようです。

ここには「ヒトツバダコ」と書かれた樹が大きく育っていて、上のような黒い実をつけていました。あまり見かけない樹ですが、黒い実も触ってみましたが、硬い実でした。

(補記 ただいまネットで「ヒトツバダコ」を検索してみましたら、なんとこの樹はあの「なんじゃもんじゃ」の樹なのだそうです。この花は国内では長崎県対馬地方と岐阜県と東濃地方だけに自生するといわれ、5月頃に咲くこの「なんじゃもんじゃ」の白い花をたずねて、これまでいくたびかあちらこちら・・・先年は、大阪城で満開の花を見つけて、このブログでもUPした記憶がありますが・・・「なんじゃんじゃ」の学名が「ヒトツバダコ」なんだそうです! びっくりしました!!)


そしてこの木の横には、大きな一本のコブシの樹もありました。これも素晴らしい樹でした。

ほかの花と面白い松の木?から生えた新芽?と共に収めて置きます。