延原時行歌集「命輝く」(第2217回)(はねを震わせる蝉・バラ・アサガオ・サルスベリ・エンゼルトランペットそして海泉禅寺)

                     

         延原時行歌集「命輝く」(第2217回)

 「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(221−3)
延原信子物語の歌、昨日の歌、一書をばの歌、原事実刷新の歌、ロゴス論奥底の歌、古稀フォトの歌、復活歓喜の歌、摂理の歌、今朝の歌、誠嬉しやの歌、今生さだめの歌、真中の歌、日々佳しの歌、驚きぬの歌、御文嬉しもの歌、何処にもの歌、我悟る:Pentecostal Visionの歌、今日も我の歌、熱誠の我が友二の歌、御友発見一大事の歌、御友神学奧所の歌、いかで今の歌(2015年7月1日〜10日)。

         〇(7月3日)原事実刷新の歌十首

   原事実在りて人こそ即応か否原事実自ら動く
(備考:原事実自動論のテーマ開示:原事実刷新のプロレゴーメナⅠ)

   さもなくば原事実はや死せる岩不動の動者絶対観念(備考:原事実不動の動者論の批判:原事実刷新のプロレゴーメナⅡ)

   神人の不可分誠見しならば神の属性非ずなりけり
(備考:原事実自動は不可分を神の属性とせぬ事から始まるなり。原事実刷新の、批判的開始として、第一段階なり)

   不可分や換言すれば空性ぞ無きがままにて神人繋ぐ
(備考:不可分=空性が、原事実刷新の、積極的起点として、第二段階なり)

   空に神人もや至誠なることや存在論ぞ有無やなきなり
(備考:神人不可分(=空)への存在論的至誠心こそ、原事実刷新の第三段階なり:これ仏教にてや「空即縁起」の消息なり)

   されどもやこの事態にぞ自覚的至誠貫く神のみやこそ
(備考:「神人不可分への存在論的至誠心」への自覚は神にのみあり。これ仏教の言ふ「本覚」なり。ここに原事実刷新の第四段階あるなり)

   人はぞやかくあらずして恣意的に自覚離れて右往左往ぞ(備考:これ「本覚」の反対、無明なり。無明の自覚、原事実の刷新の第五段階なり)

   かくしてや神人不可同現るるさらば人はぞ捨てらるるかや
   (備考:神人不可同の自覚次元、原事実刷新の第六段階なり)

   否神やかかる人をぞ佑けむと至誠なれやと呼びかけ給ふ(備考:神人不可逆とは、至誠なれやとの招喚なり。これ原事実刷新の第七段階なり。招喚現実にはマタイ5・48におけるごとく「汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ。」と父を見て言ふ御声《Verbum》として現るるなり)

   これこそや絶対不可逆愛なるよ友よと呼びて御友ぞいます(備考:招喚者の「御友」としての告知なり。ここに原事実刷新の第八段階あるなり。即ち、ヨハネ15・15のメッセージなるなり:「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである。」御友は告知のために命を賭ける:「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」ヨハネ15・13=マルコ10・45「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」御友の告知を父から見るならば、以下の如し:「神はそのひとりごを賜わったし程ほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3・16)   

          
           原事実刷新楽しの歌七首

   今日の日も雪深々と胸に降る原事実のぞ刷新楽し

   原事実自動と見れば刻々と刷新すすみ御友神学(備考:元々原事実自動の思想、恩師「原決定の原生起」のはたらきの二重性の留意に示されおりしは重要なり:「この絶対無的主体の「はたらき」が、原決定の原生起そのものを意味するはたらきとその原決定の世界内部へ向かうはたらきと、いわば二段に成っていることを見逃してはならない。」(『あなたはどこにいるのかーー実人生の基盤と宗教』東京・三一書房)、102頁、参照。ただし、滝沢には「原決定の原生起」を、私見の如く、不可分がそれである空性の、①空自らを空ずる「はたらき」と、②この「はたらき」への存在論的至誠のはたらき、――の二重性と見る見解はなきなり。それは、恩師が「はたらき」を常に「神のはたらき」と見る故なり。ここに不可避的には「たらきを」神の属性とみる一元的見方が胚胎するなり。かくして、恩師におきては「神の不可逆的はたらき」の主張が突如最後に神哲学の前面を覆うものとして出でくるも、それでは神人不可分の先行性を蔑にするものなり。神人の間の不可分→不可同→不可逆の順序は、遵守すべきなり。而して「不可分」「不可同」「不可逆」の含意を明晰判明にすべきなり――最初の「不可分」を神の属性とせず、空性と見ることに依りて。これ最も肝要なり。最後に、恩師における如く、「神の不可逆的なはたらき」で一切を纏めてしまふならば、哲学的神学は消へ、バルト張りの神絶対視の神学とはなるなり。危なし危なし)

   恩師のぞ原事実のぞ不動(注。世界外部)しも批判せし事学恩ありて

   日ノ本の哲学的の神学の基礎たるや何滝沢学ぞ

   これ在りて我や為すなり批判的吟味一筋御友発見

   御友のぞ全かれとの御声受け我妻やげに絶後笑み増す

   我妻や絶後笑み増し不思議やもこれありてこそ復活開自   (備考:ノーちゃん、凄いこっちゃ。有難うね、父さん)


         ♯              ♯


今朝も上の歌に加えて「今日の歌」を収めます。

延原さんから届けられた本日の新しい「朝の歌」も、わかりやすく、やすらぎと希望をつげています。


          〇(7月31日)一つ心の歌二十首

   朝夢に復活論文読むや我寝ても覚めても甦りなり

   何が我嬉しき言ふも我妻や幸せ絶頂皆我成すと

   これやこそ我妻絶後笑み増しの奇蹟の前の奇蹟なりけり

   父さんな忘れんといてなノーちゃんがどれ位にな感謝してるか

   ノーちゃんやよう分かったで汝が心この世でいとも尊き心

   妹と背の一つ心の尊さや我ら知りたり妻最期の日

   その日こそ命輝く最初の日滅して不滅岸辺の主共

   御復活我ら包める奇しき業一つ心の成就ほかなし

   復活の歓び実にも此処に在り一つ心の妹背我らや

   何がぞやこの宇宙にてかかる事得しめ給ふや御友ほかにぞ

   御友こそ実に誠にや友のため人(ひと)命棄つ示す御方

   復活や我や知りたり我妻の幸せ絶後笑み増す奇蹟

   我妻や絶後笑み増し往きてこそ永久(とこしえ)命あるや示せり

   然る故我妻絶命驚愕の時思へばや命我打つ

   復活や実にも嬉しき命こそ御友と共に妹背包むも

   痛ましや果敢無しや言ふこの世人見ざるは何ぞ一つ心ぞ

   汝やもし一つ心を見たらばや命復活なす疑はじ

   奇しくもや宇宙に御友ます以上一つ心の我らほか無し

   滅すれば痛し果敢無し言ふ者は一つ心の宇宙知らずや

   宇宙とは滅して不滅我らをば一つ心に保つ御方

            歌詠める時の歌十首

   我はしも歌詠める時心はぞ躍りて深く望み満つるや

   歌なき日くさぐさの虚無そこここに胚胎せるや歌待ちつ実に
   (備考:これ創造的虚無なり)

   かかる時我心して集中す我妻絶後笑みや的なり

   絶後のや妻笑み増しや霊感ぞ突如心に雪や深々

   筆とりて歌書くうちに心にぞ歓び徐々に湧き来るべし

   歓びの湧き来りてや想像の波や拡がり御友我寄す

   宇宙のや響き心を打ちたたき希望の翼羽ばたく如し

   日ノ本の国の歌こそ嬉しけれ歌拡がれば国気宇壮大

   この国や変貌無きの平和をぞ飛び越へ行きて和平齎せ(備考:根本的に考ふに、この時代余りに固定的なる敵対関係に身動きつかぬ如し。キリスト教絶対主義より発せる地上的覇権主義(=GHQ主義)を脱せよ。故に和平齎せ(日米の間に真の「和平」齎せ:真の文明論的「和平」確立せぬまま、GHQ主義から「平和憲法」施与せるは、偽善なり)。「文明の衝突」(ハンティントン)なる考へこそ21世紀を盲目になせり。これ「9・11」「テロとの戦争」「イラク戦争」齎せり。「仏教とキリスト教の対話」を希望と和平の原型となし、冒険せよ、変貌せよ。「佛基対話」こそ「キリスト教絶対主義的欧米主義」と「イスラーム」との間のせめぎあいから「鬼子:イスラム国」を産める21世紀の悲惨を超へる原理を内蔵するなり。何故ならば、そこには「有」にあらずして「空・絶対無・究極の関係性」を宇宙の根底と見る観点ある故なり。この観点を徹見せる者神なり。①神空に至誠なり。②空は空自らを空ずるなり。③神は宇宙において我々被造物に至誠心を喚起することのでき、かつ現に喚起する、唯一の御方なり。④この事を観、かつ我々に「汝らも天父の如く至誠なれ。」と宇宙命法を勧むる者、宇宙の御友なり。御友形而上学こそ、覇権主義的国際政治を超ゆる智慧なり。要するに、地上主義的覇権主義を猛省せよ。命根本的に、「死滅」にあらずしてどこどこまでも「復活」ならば)

   地の果ての天と接する間際まで御友と共に行けや汝人(なれひと)
(備考:何ぞ汝地上だけにて資源、国土、文明争奪戦に憂き身をやつすや。天と接する形而上学感覚持たざるべからず。御友知らずば天地知られず)





本日で7月も終わります。今晩は満月でブルームーン、宇宙の油井さんたちも通過するそうですね。

上の写真は、私たちの花壇の隣の薔薇の花で、また新しい蕾を見せ始め、隣りで蝉がはねを震わせて、精一杯蝉友だちと大合唱しているとことです。

昨夕も法人の大事な会議があって、チャリンコに乗って出かけましたが、途中で新湊川から別のコースを通って、道沿いの御家の玄関に飾られていた沢山の彫り物に目が止まったり、大きなエンゼルトランペットが咲いていたり、そしてはじめて立派な禅寺ー海泉禅寺ーのあることに気づいて、ちょっと自転車を止めてカメラに収めたり・・・。

本日の写真はそれらと共に、いつもの散歩道で出会う昨日の花たちを収めます。日ごとに新しい姿を見せてくれます。