延原時行歌集「命輝く」(第2191回)(またまたノラ猫ちゃんたちと・・・・)

                        

        延原時行歌集「命輝く」(第2191回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(218−2)
復活やの歌、宇宙のぞの歌、祈り道の歌、過日はやの歌、このところの歌、英文二新著の歌、今朝がたやの歌、第一義・第二義の歌、御友生き方の歌、嬉しきの歌、母校に翔ぶ日の歌、この道やの歌、於Claremontの歌、友方にの歌、カブ講演に寄せての歌、心にぞ暖かき雪降りしきるの歌、ホ氏や言ふの歌、会に出でての歌、西田言ふの歌、間主体intersubjectiveの歌、Room128にて早朝の歌 朝8時Mudd & Blaisdell Hall (宿舎)前にてSupershuttle待ちつつの歌、ANA機上にて思ひたるの歌(6月9日帰国)、人生はの歌。(2015年6月1日〜10日)

          〇(6月3日)英文二新著の歌七首

   大いなる感動の波打ち寄する我が英文の二著や成りたり

   様々の夾雑物を取り除き瞬時にしてや整へにけり
(備考:第一著:Anselm’s Argument and Buddhist Wisdom; 第二著:Toward an Ecozoics of the Deity: Ecological Theology in a New Key Coping with the East-West Dialogue in Philosophy”なり)

   さてもさてロスまでの旅じっくりと二冊瞑想如何に楽しき
(備考:June 4-7, 2015: Seizing an Alternative: Toward an Ecological Civilization Conference at Pomona College, Claremont, U.S.A.にて”Divine Ecozoics and Whitehead’s Adventure or Resurrection Metaphysics in Tandem with Ryokan”なるペーパー発表やせむとの旅なり。9日に帰国せむ)

   何にせよ三十年の昔より綴り来れる英文著成る

   各章や雑誌論文出でし時楽しめる友数多おはすや

   我がぞや部屋歩きつつintrinsic valueなど口ずさむ妻愛しけり
   (備考:intrinsic value=本具的価値)

   かかる日々ありてこそなりノーちゃんぞ箴言作る修行精励
(備考:第七条ぞ傑作なり:”I am living in the secular world. And yet I am blessed by the sacred world. Is this strange? No, not at all. It is quite normal in Japan because Japanese society is very much influenced by the Buddhist wisdom: samsara is nirvana.”)

   それ思ひこれ考ふや二著にぞや妹背の息や沁み込みてあり

             今朝がたやの歌三首

   今朝がたや夢の中にて別々の人格なるも一体と見ゆ

   げにもぞや面白き夢back to backとぞ言ふや当たるや一体の妙   (備考:御友そこに在すなり)

   余程にぞ二著の完成嬉しくや夢にも歓喜うつつも歓喜

           第一義・第二義の歌十五首

   滝沢の第一義にて言ひたきやインマヌエルの原事実なり

   原事実インマヌエルと名付くやは太初のロゴス「神と共」ゆえ
(備考:太初のロゴス(ヨハネ1・1・第一項)にそもそも「インマヌエル」の語義やなし。「太初の」ロゴスなる故にこのロゴス「この世の根底」とは言ふべし。「インマヌエル」の語義生ずるは、ヨハネ1・1・第二項「神と共」(pros ton theon)なる「内奥のロゴス」太初のロゴスの本性なる故なり。滝沢この事理に一切触れず。それが故にこそ、滝沢論サルトルなどの実存哲学と軌を一にせし理由あるなり。すなわち、常に恩師は、この世の根底だけに省察をむけたるなり。されど、内奥のロゴスは、この世の根底のその底即父子ひらけなる、その「神と共なるロゴス」なるなり。そこに「父に向けての飛翔」あり。それ復活なり)

   そこにぞや太初のロゴス父子ひらけ映してこそぞ成り立ちしなり

   かくなれば神空にぞや至誠なる本性あるや被造物なし

   被造物空に至誠の本性を縁起なすやも自覚なきなり

   無明とはこの事なるも神破る空即縁起神自覚せり

   かくしてぞ太初のロゴス天父より栄受けたる子としてぞ在り
   (備考:ヨハネ17・24)

   恩師はや太初のロゴス偶有(Kontingenz)と見做したるやも栄内在(備考:神人一体の中の「一体」、これ栄にして、神人一体「栄内在」なくして在り得ざるなり。それを見ざる故に、滝沢神人一体を「偶有」と述べるなり)

   この栄御友や自覚その上に華やがせよや父よと祈る   (備考:ヨハネ17・5)

   主の祈り給ひける故宇宙のぞ動因やある復活生ず

   かくしてや太初のロゴス不動のぞ動者非ずや御友なりけり

   御友はや第二義実在立所より父より聴きて友よと語る
(備考:ヨハネ15・15:「父より聴く」に御友の第一義への遡及あるなり)

   友よとぞ語りかけたる御友はや只の人には非ずよげにも
(備考:その救済意志を見れば、これ使命を帯びたる人なり。「只の人」には非ず)

   友として我ら呼ばるる嬉しさは実に何にもや喩へ難きよ
(備考:人の幸ここに在るなり。この世において幸は友知る事。それ永久の友の処に往くことの助走なり)

   これこそや永久の栄に容れらるる道の歓びなるや人知れ
   (備考:ヨハネ17・24)

             御友生き方の歌六

   御友はぞ人の理想の生き方を頂上者にや置かず友生く

   教育や友生く智慧の開発ぞ何しろ宇宙御友中心

   我妻と中巻完成期するはや箴言修行輝く見んと   (備考:これ妹背友の心なり)

   夫だけ世に知られ行く何程の事やあるらむ妹背共々
   (備考:なあ、ノーちゃん。嬉しい、嬉しい、父さん)

   それでもな父さん活躍好きは誰ノーちゃんやなあ頑張りまっさ
   (備考:そう、頼んまっさ、父さん。あはははは)

   ハーマンや我が書きしもの皆読むとメール来信心憎きも(備考:クレアモント学会中に読み給ふならむ。心打たれぬ。Herman Greene=Former Executive Director of IPN: International Process Network)


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上の「6月3日」に詠われた延原さんのたくさんの歌に加えて、今朝も「今日の歌」を収めます。昨日は「6月2日」の歌の内「一書をばの歌一首」をUPしていましたが、そのあと五首に補記されていますので、それと共に加えます。ここに詠われている高谷のぞみさんの返書は、若き日の牧師労働ゼミナールに共に参加した先輩のもので、格別の印象を受けています。いいですね! 高谷さんより先日、種谷牧師の随筆集『救い主イエスの顔した神さま』(南船北馬舎)をお贈りいただき、高谷さんのブログに御礼を送り御返信をいただいたばかりでした。

            〇(7月2日)一書をばの歌五首

   一書をば献本したり幾星霜越へ御声あり甦りの日(備考:高谷のぞみ師よりメール御返書7月1日付あり。深謝無尽も:「延原先生 復活の省察(上巻)などお送りいただき感謝です。懐かしい信子様のこと山盛りのご本、吸い付くように読んでいます。お二人と一書に参加した牧師労ゼミ何十年も前だったのに突然思い出しお二人のいい雰囲気を思い出しました。あの時の製紙工場での労働最初のうちは本当に疲れました。信子様、いい人生といい甦り、笑顔、その通り、その通り、と言いたいです」(6月28日)先達の歌五首、参照)

   笑みあらば御声ありたり孰れもや御友の徴如何に嬉しき

   この世をば過ごし往く道孰れもや御友の道や笑みも御声も

   原事実のみぞ在りてやイエスはや縛ることなしならば無味なり   (備考:滝沢克己『純粋神人学序説』272頁、熟読参照)

   御友こそ宇宙中心原事実聴きてぞ我ら愛す君そも(備考:See Pierre Teilhard de Chardin, The Future of Man, p. 324; see also Whitehead, PR, 351)

    
           〇(7月3日)原事実刷新の歌十首

   原事実在りて人こそ即応か否原事実自ら動く(備考:原事実自動論のテーマ開示:原事実刷新のプロレゴーメナⅠ)

   さもなくば原事実はや死せる岩不動の動者絶対観念
(備考:原事実不動の動者論の批判:原事実刷新のプロレゴーメナⅡ)

   神人の不可分誠見しならば神の属性非ずなりけり
(備考:原事実自動は不可分を神の属性とせぬ事から始まるなり。原事実刷新の、批判的開始として、第一段階なり)

   不可分や換言すれば空性ぞ無きがままにて神人繋ぐ(備考:不可分=空性が、原事実刷新の、積極的起点として、第二段階なり)

   空に神人もや至誠なることや存在論ぞ有無やなきなり
(備考:神人不可分(=空)への存在論的至誠心こそ、原事実刷新の第三段階なり:これ仏教にてや「空即縁起」の消息なり)

   されどもやこの事態にぞ自覚的至誠貫く神のみやこそ
(備考:「神人不可分への存在論的至誠心」への自覚は神にのみあり。これ仏教の言ふ「本覚」なり。ここに原事実刷新の第四段階あるなり)

   人はぞやかくあらずして恣意的に自覚離れて右往左往ぞ
(備考:これ「本覚」の反対、無明なり。無明の自覚、原事実の刷新の第五段階なり)

   かくしてや神人不可同現るるさらば人はぞ捨てらるるかや
   (備考:神人不可同の自覚次元、原事実刷新の第六段階なり)

   否神やかかる人をぞ佑けむと至誠なれやと呼びかけ給ふ(備考:神人不可逆とは、至誠なれやとの招喚なり。これ原事実刷新の第七段階なり。招喚現実にはマタイ5・48におけるごとく「汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ。」と父を見て言ふ御声《Verbum》として現るるなり)

   これこそや絶対不可逆愛なるよ友よと呼びて御友ぞいます(備考:招喚者の「御友」としての告知なり。ここに原事実刷新の第八段階あるなり。即ち、ヨハネ15・15のメッセージなるなり:「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである。」御友は告知のために命を賭ける:「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」ヨハネ15・13=マルコ10・45「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」御友の告知を父から見るならば、以下の如し:「神はそのひとりごを賜わったし程ほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3・16)   








神戸新聞の記事に誘われて昨日午後、ぶらり散歩を兼ねて、近くの長田区役所のまちづくり課の窓口にうかがい「Nan Nan」を戴いてきました。「くつのまち長田」の特集号です。上の像は、区役所前のひろばの作品です。

むかし長田のゴム工場のロール場で汗を流した日々を想起させるものです。散歩道でもよくその場所を通り、いまもかわらず同じように働く人々と、工場の音と匂いを経験しています。いまもガンバッテいますね!

本日の写真は、またまたぶらり散歩で出会った昨日の野良ネコちゃんたちです。新顔もありますよ。