延原時行歌集「命輝く」(第2187回)(梅雨の中の晴れ間ーー空と海と)

                         

         延原時行歌集「命輝く」(第2187回)

「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」(217−6)
我が後をの歌、見しの歌、来る日毎の歌、源知るの歌、何とかなるさの歌、誠見事にの歌、英文新稿の歌、我が館復活の家の歌、驚きぬの歌、この頃はの歌、宇宙中心の歌、この時代の歌、良寛やの歌、時や未来の歌、アンセルム麗しの歌、昨晩やの歌、庭の草の歌、喜びやの歌、発見ほのかの歌、中にてのことの歌、かくもぞやの歌(2015年5月21日〜31日)。

     5月28日
              時や未来の歌四首

   我妻や絶後笑み増し浮かべてやこの世の幸を超ゆる幸生く

   そのことの如何に稀有なることなるか我も味合ふ時にぞ知らむ

   この幸や全てを御父御許にて過去脱するの時とこそ知る

   帰り来ぬ思ひ出非ず御許にて御父とぞ知る時や未来ぞ

            アンセルム麗しの歌六

   アンセルム信ぜずともや神知るの照明やあり告げし麗し
(備考:これアンセルムス『プロスロギオン』に於ける神証明の極北なり。"I thank thee, good Lord, I thank thee, that what I at first believed because of thy gift, I now know because of thine illumining in such a way that even if I did not want to believe thine Existence [ut si te esse nolim credere], yet I could not but know it.” See Karl Barth, Anselm: Fides Quaerens Intellectum. Anselm’s Proof of the Existence of God in the Context of his Theological Scheme, SCM Press Ltd., 1960; Reprinted by arrangement 1975, The Pickwick Press, p. 170.この一節、マルティン・ルターの信仰義認に勝れるなり)

   仮令人自死せる不幸ありともや御神光ぞ罪超ゆるとは

   新教の信仰義認我が信を経巡りてぞや神学び無し

   御神の恵み御心我が信の不信のぞ言ふ埒超ゆる哉

   かかること御神御許で人知るや感涙滂沱あることぞかし

   人よ汝未来無きとぞ泣く莫れ汝が未来はぞ御父御方

              昨晩やの歌二首

   昨晩や英文稿の語るやは岸辺の主のぞ復活学ぞ(備考:第一部Divine Ecozoicsから第二部Whitehead’s Adventure or Resurrection Metaphysicsに歩み進めしなり。先ずヨハネ21・4の「岸辺の主」学闡明す。これ我妻の絶後笑み増しの「処」なり)

   記述はぞごく簡素やもげに深し御友こそぞや岸辺の主なり(備考:”Just after daybreak, Jesus stood on the beach; but the disciples did not know that it was Jesus."に無限の形而上学的含蓄あり:岸辺の主「復活者」はぞ、「我らが親しき」御友なりけり!)


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今朝も上の歌に加えて、昨日と今日の歌の中からたっぷりと収めさせていただきます。

          〇(6月28日)ノーちゃんやの歌五首

   ノーちゃんや我ら復活宣教の天地に分かる御業励むや
(備考:今朝夢にて我ら旅しおりたるも、妻急ぎ往くなり、我少し遅れて往くなり。何故なるか。目覚めてこの歌作りたり)

   汝が絶後笑みなくしてやいかで我復活説教なし得べきぞや

   尊きや汝が笑みやこそ示したる御友岸辺におはす御姿

   我妻や単に逝きしに非ずして御友御姿笑み示し往く

   絶後のぞ人生岸辺何あらむ御友おはすや妻笑み称ふ

              先達の歌五首

   先達の珠玉説教集や成る八十八年御言葉味読
(備考:種谷俊一著『救い主イエスの顔した神さま』編集人:高谷のぞみ、豊中南船北馬舎、2015年。しみじみと心に深く響く説教集なり。種谷先生は「カール・バルトの著作集」も含めて御言葉を「ゆっくり読む」読書家なり。而して熱烈なる復活信仰者なり(99、110−111、135頁参照)。叡智きらりと光るあり。月刊「まきびと」(主宰 高谷のぞみ)に1999年3月から2014年10月まで掲載されし「ミニ説教」64篇からなるなり)

   半世紀前にぞ我ら尼崎教会根城労ゼミにあり
(備考:我ら妹背の初めて出会いたる場所なりき。熱誠の友鳥飼慶陽師も、高谷のぞみ師も在りき。『第2回牧師労働ゼミ報告書:1968年1月21~27日 「ついて来たいと思うなら――修行・卑下・社会性」』(主催 兵庫教区職伝委員会;後援 日本基督教団職伝委員会 大阪教区職伝委員会)表紙に18名のフォトあり:拙著『復活の省察 [前巻]―妻と歌う:生くるとは深き淵より共々に甦ること御喜びてこそ』132−139頁、参照)

   種谷師この渦のぞや主(ぬし)にして優しくもあり警句もぞあり

   牧会権裁判のぞや被告人勝訴ありてや甦ります(備考:『国権と良心ーー種谷牧師裁判の軌跡』東京・新教出版社、1975年、参照)

   和田山の施設牧会仄々と説教集を生み出だせるも

             エコ神学の粋の歌二首

   友よりの精神的の境界の論考深しエコ神学の粋(備考:山本良一東京大学名誉教授・東京都市大学教授・国際基督教大学教授「精神的境界についての小論」昨日拝受せり:「お元気にご活躍の御様子嬉しく存じます。クレアモントの会議に御出席され、カブ先生にもお会いされたのですね。先生からのメールが配信されてくると、小生も大先輩に負けずにがんばろうという意欲が出て参ります。
 さて、現在欧米ではPlanetary BoundariesやSocial Boundariesというコンセプトが注目されております。それに対して小生はSpiritual Boundariesも大事ではないかと考えて添付のような小論をまとめてみました。キリスト教神学と仏教学にお詳しい先生に是非ご高覧いただければ大変嬉しく存じます。 山本良一」 添付文書[未公開のため]省略)

   我誠御説至当と感ずなり至誠心のぞ神学よりぞ
(備考:ご返事メール書簡、6月27日付:「重要な御説「『地球的境界に対して精神的境界』を提案する」をご教示いただき誠に有難う存じます。御説は、至当なる御見解かと存じます。私自身は、論文"The Problem of the Two Ultimates and the Proposal of an Ecozoics of the Deity" (近くLexington Booksより刊行される、Roland Faber & Santiago Slabodsky, eds., Conviviality: Prospects and Challenges for Peace in a Multireligious Communityに寄稿の一章)に明らかにしております様に、少なくともエコロジー神学の観点からは、世界のエコロジーの前に神のエコロジーを考えることが至当と考えておりますので、「精神的境界」の御説は、わが意を得たりに存じます。
 神のエコロジーとは、神内部において、神の神の根底(同時に世界の根底)である包括的ロゴス(「ロゴスは神と共に(pros ton theon)在った」ヨハネ福音書1章1節第二項)に対する至誠心を前提にしつつ、それ故に却って逆説的に、「至誠なる者のみ他者に至誠であれ」と至誠心を招喚することができ、現に招喚する、と言う至誠心の神学原理により、神が世界に「精神的境界」を護るように、命法を明示される領域の事であります。これに従うのが、世界のエコロジーの任務、トマス・ベリーの言葉では「偉業」であります。この観点から、先生の「小論」の結語は重要です:

 「地球的境界は人類全体としての地球生態系へのインパクトが越えてはならない条件を設定しているのに対して、精神的境界は個人あるいは組織の自然に対する精神的傾向に持続可能な方向と持続不可能な方向を設定している。
 現在の世界の状況を考慮すると、
 精神的境界を突破しているのではないかと推定される境界
   ◆ 自然は神性、信仰と畏敬の対象
   ◆ 自然は根本的に操作不可能、介入は慎重に最小限で
   ◆ 共生、公正
   ◆ 先義後利、三方よし経営
   ◆ 倫理的な科学技術
   ◆ 倫理的消費
 危険な領域にあると見なされる境界
   ◆ 人間は自然の一部、自然によって生かされている
   ◆ 自然を師とし、自然に学び、自然に規範を置く
   ◆ 分を知り、小欲知足、MOTTAINAI
   ◆ 己を忘れて他を利する、奉仕、布施、作善
のように評価されるがいかがであろうか。」(3頁)

 世界の根底は、太初のロゴスと呼ばれ、我が恩師滝沢克己先生の専ら「インマヌエルの原事実」と呼称されたものであります。この「原事実」は世界の根底と言う意味であります。この根底であるロゴス(太初のロゴス:ヨハネ福音書1章1節第一項)が「神と共である」としているのが、同第二項の観点であります。第二項の「神と共に在る」ロゴスは、第一項の「太初のロゴス」を背後から包むものとして、「包括的ロゴス」と私は呼称すべきだと考えております。
 包括的ロゴスは、仏教では、法性法身:Dharmata Dharamakayaであります。これに至誠なる御方が、方便法身:Upaya Dharmakayaなる阿弥陀如来であります。
 私の至誠心の神学は三乃至四つの原理からなります:①God is loyal to Emptiness=Dharmata/Creativity.②Emptiness empties itself.③God is the only one in the universe who can and does actually evoke loyalty in us creatures.④The Great Friend is the one who sees and hears from God the Father how the Divine loyalty is shown in reality and asks us to be loyal to Him (see Matt. 5: 48; John 15 :15).
 第四原理は、キリスト論です。至誠心の神学は、それ自体が「精神的境界」の論理をなすのであります。この度クレアモント学会(Seizing an Alternative: Toward an Ecological Civilization: at Pomona College, June 4-7, 2015)で発表したペーパー"Divine Ecozoics and Whitehead's Adventure or Resurrection Metaphysics in Tandem with Ryokan"では、第四原理が不鮮明であるとして自己批判、大幅に改稿、改稿を前面にだして、全く新しい論文といたしました。これは、神の至誠心を「観、かつそれに聴き、それゆえに、被造物に至誠であれ、と語りかける、宇宙の真中なる者。御友」の発見に基づきます。同様の発見は、シャルダンのThe Future of Man, New York and Evanston: Harper & Row, 1959, p. 324.に見られます: "The Universe is centered—Evolutively. {Above and Ahead; Christ is its Center. {The Christian Phenomenon Noogenesis = Christogenesis (= Paul) これはシャルダンの死ぬ三日前、7 April, 1955の手記にあります。同様の観点は、ホワイトヘッド『過程と実在』にございます:The great companion—the fellow-sufferer who undersands. [see PR, 351] 宇宙の中において「天」と「世界」をreciprocal[交互的]に関係づける者の思想であります。
 先生ご紹介の『詩編』19編に関して。確かに「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手のわざをしめす」は、仰るように、「自然を神の被造物として外側から把握し支配する」というキリスト教的自然観です。これはもともと旧約聖書の自然観ですが、御友神学からは、訂正されます。ヨハネ福音書17章24節:「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。」この内三位一体的「栄光」を自然界に表出したものが、「もろもろの天に現れた神の栄光」でありましょう。私のDivine Ecozoicsによりますと、そこにLoyalty=Spiritual Boundariesが成り立ちます。
 「仏法僧」の問題について。長谷川洋三『イエスユダヤ教より仏教に近い』(新潟・考古堂、2009年、10頁)は、「法前佛後」となるとの見解を示しています。キリスト教では、「言前神後」となるとも。私は、「言」を、先に論じました「包括的ロゴス」の事とすれば、「言前神後」になる局面を指摘することができます。神は包括的ロゴス(西田哲学では「絶対無の場所」)に至誠でいます、それ故に「汝ら至誠であれ。」と至誠心を喚起することがお出来になる、と見ます。但し、私の新しい御友神学によれば、招喚を御友を通じてなさるのでありますけれども。
 私の四原理の至誠心の神学を含むDivine Ecozoicsの見地から、先生ご提示の「精神的境界」Spiritual Boundaries論大賛成であります。
 右、お礼方々 
 草々不一
 延原時行」)
 

            〇(6月29日)驚きぬの歌二首

   驚きぬポポン聴きてや出で見れば玉葱胡瓜抱へたる君

   またポポンお隣様や今度はや酢の物カレー満面の笑み   (備考:如何に有難きかや言ふ言の葉ぞ無き)






昨日と今日は梅雨の中の貴重な晴れ間、今朝はたっぷりと洗濯をしてベランダにつるしました。

上の写真は今朝のベランダからみた瀬戸海です。ずっと和歌山の方面まで肉眼で見通せて、船の白波まで見えます。明日から今週は雨模様の予報が出ています。

(レンズによごれがついているのか、折角の写真に黒いものやチリがついてしまいます。古い安物カメラとはいえ、もう少し持ち歩きたいのですが、このよごれをとるにはどうすればよろしいのでしょうか、御教示いただければありがたいのですが・・・)

日曜日の昨日の午後は、神戸人権交流協議会を構成している業者の皆さんの定期総会に参加の帰りに、ふと空を見上げると、面白い雲たちが遊んでいましたので、立ち止まってカメラを向け、我が家に戻ってからも雲たちを数枚撮りましたので、ここにそのうちの数枚を収めて置きます。






そういえば、賀川豊彦の名品に「雲日記」というのがありますね。空を見ていると、時間を忘れますね。

今、ベランダには古くから毎年伸びてくる山芋やヘクソカズラなどの緑の葉っぱが綺麗です。そしてお隣さんからアサガオをもらって鉢に植えてみたりしています。楽しみですね。