延原時行歌集「命輝く」(第2174回)(昨日の花壇とぶらり周辺ーークチナシ、アガパンサスなど)

                      

        延原時行歌集「命輝く」(第2174回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(216−1)
為すは人主体御神の歌、摂理謝すの歌、今日の日やの歌、朝餉の歌、妻幸せの歌、微笑の歌、主の祈り二重の歌、愛の歌、不実教と御友飛翔の歌、「友よ」嬉しやの歌、今朝恵まれし御友神学の歌、称名の歌、道伝ふ歌の歌、宇宙開眼の歌、神学びの歌、任す日や佳しの歌、御自らの恵み歌、御神日々の歌、変貌論の時代歌、主の促しやの歌、本作る父さんやっての歌、悟りたりの歌(2015年5月11日〜20日)

    5月11日
           為すは人主体御神の歌六

   「本作る父さんやって」我妻や言ひし時にや主体御神   (備考:今にして我悟りたり)

   この事情手のうごき見し我感ず本掴む者妻か否神

   今にもや意識朦朧妻如何に本掴む意志あらむや神ぞ(備考:2010年12月1日早朝、救急車に搬入さるる前。妻居間の書棚一段目の本数冊二度にわたり右指にて引き寄せたり。三度目に二段目の洋傘右手で鷲掴みせり。我これ凝視しつつ自問せり「これ妻信子なるか。意識朦朧、死間近なる故彼女に非ず。さらば?御神為し給ふや?」救急隊員来たり、彼女運びつつ「右眼瞳孔全開」と病院に報告しつつあること我恨めしく聞きおりしなり)

   奇蹟のや現象本性これなるや人ぞ為すやも主体御神

   此度はや本作りにぞこの現象示されにけり我今悟る

   我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す(備考:「底」父子ひらけのロゴス=ヨハネ福音書1章1節第二項=我妻の絶後笑み増しの主体なること我確信す。妻ただ無心なりき!)

             摂理謝すの歌六

   我妻の懇望なくば我いかで渡米留学思ひきやげに

   しみじみとかく思ひてや旅したり川西に我摂理謝しつつ(備考:教団新報に北米留学者募集公示あるを見たる妻行けとせっつくなり。我「行かぬ。開拓伝道に挺身したる我なり」と応ふ。されど、あまりに煩くせっつく故、「試験受けるだけやで」と言ふ。通りしなり。それ思ひつ此度の旅為したるなり)

   川西の開拓伝道かくしてぞ妻と米欧敬和至るや
   (備考:何処にありても我が業開拓伝道なりしや)

   そのことの意味するところ我が思ひ超えたるやこそ御友知ります

   この間に熱誠の友我佑く海越へ山も越へし真心

   真心やブログ記録に日々に今も続くや稀有の業かな

             今日の日やの歌三首

   今日の日や英書共著の出ずるとて索引稿を頼まれし佳し(備考:Roland Faber & Santiago Slabodsky, eds., Convivialityに我one chapter: “The Problem of the Two Ultimates and an Ecozoics of the Deity: In Dialogue with Thomas Berry and Sallie McFague”寄稿す。只今編集最終段階なり。会心の英文稿出ずる嬉しや)

   今の世にDivine Ecozoicsを提唱す我が哲学の道ぞ嬉しや(備考:「神のエコ生命学」と邦訳すべし。これ在りて「世のエコ生命学」ないしエコロジー真に成り立つなりとは、わが所論なり。世の識者諸氏御照覧あれ。これ入来なくば、エコロジーおよびなべての今生学根拠なきなり。拙著『復活の省察』の学術書版なり。)

   摂理道今も我妻我と共天地往くさま心響くも
   (備考:でや、ノーちゃん。嬉しい嬉しい、父さん)


        ♯                 ♯


今朝も上の「5月11日」の歌に加えて今朝届いた「6月12日」の歌のうち、次の十首を収めます。

          〇(6月12日)先達やの歌十首

   先達や拙稿四編御閲読ありてぞ感想下さる嬉し

   一番に面白き事信子さん肉体の死超ゆ復活解ぞ(備考:我妻信子己が肉体の死を契機に「復活と言ふ大問題」の解釈に我時行貢献せしは、誠面白き事なりと先達北垣宗治先生宣ふなり。面白き、と先生宣ふ、誠佳し。我妻信子肉体の死絶後笑み増し超ゆる時復活世界の解ぞ示せり。すなわち是岸辺の主御友の御臨在なり)

   棺の内笑む信子ぞや何あらむ岸辺の主ぞや共笑み給ふ

   我はしも妻笑みにぞや宇宙笑み認め行くこそ実に嬉しけれ

   我妻や絶後笑み増し不思議やも復活の解誠歴々

   妹背共復活解釈貢献す信子死により我思索にて

   我妻や絶後笑み増しなくばぞやいかで思索のそも在り得べき

   誠にや笑む人実にも菩薩道輝きて往く月光のもと

   事はぞや痛し果敢無し非ずして御栄拝跪御友の里や(備考:ヨハネ17・24、熟読参照:「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。」)

   人はそも御友の里に招かるるその光栄に笑みぞ零るる


補記

ただいま京都・行路社において、注目の延原先生の邦語新著『「変貌論」の時代ーー良寛ドストエフスキーホワイトヘッド・信子』の仕上がりが近づいています。

良寛最晩年の大変貌をめぐって」「『罪と罰』における思想の機能について」「 神と自然の変貌――マルティン・ルターからカブ、滝沢、西田、ホワイトヘッドまで」「『宇宙時代の良寛・再説――ホワイトヘッド風神学と共に』に寄せて」「延原時行歌集「命輝く――信子を偲びて」の一齣:短歌神学日記」「『復活の省察[前巻]――妻と歌う:生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ』に寄せて」の「エピローグ」に<I 歴史的変貌論と形而上学的変貌論――我が短歌神学の解><II 生涯の変貌と「第十回国際ホワイトヘッド学会:Seizing an Alternative: Toward an Ecological Civilization」出席に因んで:地球の変貌「エコロジーを真剣に考える」が収まります。

この「エピローグ」Ⅱの歌はすでに先日UPいたしましたが、最新の延原・カブ往復メール便の邦訳が添えられましたので、本書の当該箇所の一部を、学びのために補記させていただきます。行路社のこの新著が待たれます!!


II 生涯の変貌・地球の変貌ーー第十回国際ホワイトヘッド学会:Seizing an Alternative: Toward an Ecological Civilization (June 4-7, 2015, Pomona College, Claremont, U.S.A.)出席を契機に

 わが信念は、先にも述べたように、短歌神学と方法として「『変貌論』の時代」を掘り進み、明らかにすることである。そのことの狙いの概略は、「エピローグ I」 で示した通りである。「エピローグ II」では、わが生涯の変貌を、第十回国際ホワイトヘッド学会:Seizing an Alternative: Toward an Ecological Civilization (June 4-7, 2015, Pomona College, Claremont, U.S.A)におけるペーパー発表:”Divine Ecozoics and Whitehead's Adventure or Resurrection Metaphysics in Tandem with Ryokan"を即興演説”Thinking Seriously about Ecology"にて為し終えることに見たことを特筆したい。そうしてその内容について、恩師ジョン・カブ教授と真剣な「電子書簡対話」を交したことを喜びとしたい。「エコロジーについて真剣に考える」ことは、今日の地球時代において最重要な課題である。私は、地球人類は過去三世紀にわたって三つの時代精神を経験してきたと思う。「社会主義」(19世紀から20世紀まで)、「宗教間対話」(20世紀から21世紀の今日まで)、「エコロジー」(21世紀)の推移変貌の中に近代石油産業文明は自己変革を見つつあるのである。これを地球の変貌と言うならば、そのことの中に私は我が生涯の変貌を見るのである。2015年6月初旬の幸いは、生涯の変貌と地球の変貌を母校クレアモントに見たことにある。その時時刻刻の実録を以下、短歌神学の手法でお伝えしたい。


         (6月8日)Room128にて早朝の歌十首

   昨日は突如講演発動すものの見事に話し言葉(備考:28頁のペーパー用意し、Honnold Libraryにて20部コピー作成し、Track 6:The Role of Whitehead in Indigenizing Christianityのメンバーとおもなる友方に進呈したるも、6月7日Track 6の最後のセッション〆の役割任されし故、ペーパーは一切見ず、突如”Thinking Seriously about Ecology"なる演説をなせり。快調の一時間演説となれり。間にメンバーの質問あり、答へつつ進めり。我生涯会心の英語演説となれり。人方の良きご評言有難し。のちに6月11日Dr. Cobbへの電子書簡認め、13日重要なる神学的お応へいただく、我13日これに謝せり。以下の如し:

(1) Nobuhara, June 11: Dear Dr. Cobb, Friends and Colleagues, When you referred in your important address at the Conference Plenary: “A Whiteheadian response to the Global Crisis,” on June 5, 2015 at Bridges Auditorium, to the idea that various ideas and movements (secular and religious, academic and communitarian) in today’s world regarding Ecology are “interdependent,” I noticed that your reference to the Mahayana Buddhist idea of pratitya-samutpada or dependent co-origination (Jpn., engi) in your book (Japanese trans. mine in 1985): Beyond Dialogue: Toward a Mutual Transformation of Christianity and Buddhism (Philadelphia: Fortress Press, 1982, pp. 89, 113) was re-affirmed as crucially vital in any observation in any worldly and metaphysical context. If that is the case, the whole background of this notion in conjunction with the Buddhist emptiness (sunyata) has to be re-emphasized in reference to today’s Ecology, I presume. That is to say, Emptiness realizes itself in and as pratitya-samutpada or dependent co-origination because Emptiness is emptiness insofar as it empties itself.

(1)延原、6月11日:「親愛なるカブ先生、御友人方、同労の皆様。先生が、「グローバル危機へのホワイトヘッド哲学からの応答」と題する全体会議(2015年6月5日、ブリッジズ大講堂)における先生の重要なアドレスにおいて、エコロジーに関する今日の世界における、さまざまなアイデアや運動(世俗的であれ宗教的であれ、学術的であれ一般社会的であれ)は「相互依存的である」という主張に言及されました時、私は、ご高著・拙訳『対話を越えてーーキリスト教と仏教の相互変革の展望』(京都・行路社、1985年)における、大乗仏教の「縁起」観へのご言及が、いかなる世界的また形而上学的なコンテクストにおける観察においても、決定的に命に係わる事柄であるとして、再提示されているのだと気付きました。もしそうであるとするならば、仏教的空との関連におけるこの思想の全背景が、今日のエコロジ―との関連性において再度高調されなくてはならないのだ、と言えましょう。すなわち、空は、縁起において、また縁起として、現成します。何故ならば、空は空自らを空ずるからであります。


I say this because it seems to me that at the present moment Ecology is tending to be an ideology as well as an important worldwide movement, just like Socialism and Interreligious Dialogue were in the past. These three are to be called “Zeitgeists” of the three centuries, the 19th, 20th, and 21st. I presented in our Track of Section VI: The Role of Whitehead in Indigenizing Christianity a paper entitled “Divine Ecozoics and Whitehead’s Adventure or Resurrection Metaphysics in Tandem with Ryokan.” Please find attached my document of the paper. I didn’t read the paper; but I spoke of it, given an ideal situation of discussions pretty hot and alive with Andre Cloots presiding, with my mentor at Leuven, Professor Van der Veken, and with my colleagues from India, the Philippines, and Taiwan being interdependently intuitive and talkative. The theme of my speech was, I might say, something like “Thinking Seriously about Ecology.”

私がこう申しますのは、現今、エコロジーは、重要な全世界規模の運動であるのみならず、イデオロギー(虚偽意識)でもある懸念があると思われるからであります。その事情は、ちょうど過去における社会主義と宗教間対話の事例に相似いたします。これらは、19世紀、20世紀、そして21世紀という三世紀の「時代精神」と呼ばれるべきものであります。私は「キリスト教を土着化する点におけるホワイトヘッドの役割」と題するセクションVIのトラック6において、「神のエコゾイックスとホワイトヘッドの冒険ないし復活形而上学良寛と連携しつつ」というペーパーを提示しました。添付資料ご覧下さい。ペーパーをそのまま読むのではなく、それについて口頭演説をいたしました。それというのも、なかなか熱心で生気ある、討論状況が整えられ、友人アンドレ・クルーツの司会、ルーヴァンでの上司ヴァンデアヴェーケン教授のご臨席、インド、フィリピン、台湾等からの同僚たちとの相互依存的な直覚あり討究ありの空気が醸し出されていたからであります。私のスピーチのテーマは、巧まずして、「エコロジーについて真剣に考える」となったのであります。


Ecology, if it is not reflected upon seriously, would tend to be a tautology if it lacks a point of reference. Ecology is important. Why so? Because it is important for such and such a reason. But the primary reason why Ecology tends to be a tautology is that it is basically Ecology of the World. People don’t go beyond the world to speak of it. Why don’t we include Ecology of God in our reference to Ecology? I think Thomas Berry might have wanted to critially review Ecology when he invented his neologism “Ecozoic” for describing a geological epoch following the Cenozoic Era; and it signifies something like “Eco or Oikos, standing in Greek for a house or a dwelling place, plus Zoe meaning life.

エコロジーは、真剣に反省されないならば、基準点を欠いたトートロジーになりがちであります。エコロジーは重要である。何故なのか。それは、かくかくしかじかの理由で重要だからである。しかし、エコロジーがなぜトートロジーになりがちな第一の理由は、それが基本的に言って「世界のエコロジー」だからなのです。人々は、エコロジーに関して話すのに、世界を超えて往くことをしません。我々は何故、我々のエコロジーへの言及の中に「神のエコロジー」を包含しないのでしょうか。私は思うのですが、トマス・ベリーは、新生代に続く地質学的年代を叙述するために「エコゾイック」という新造語を発明した時、エコロジーを批判的に再考しようとしたのです。そして、「エコゾイック」とは、ギリシャ語で「家」とか「住居」を意味するEcoないしOikosと、「いのち」を意味するZoeを、結合したものを意味します。

In order to think seriously about Ecology we might have to refer back to the most important item during the age of Interreligious Dialogue, Buddhist Emptiness as it empties itself. Our Japanese philosopher Kitaro Nishida spoke of the Place of aboslute Nothingness. He relied upon the Eastern (originally the Indian) perspective of emptiness and thought of it from the perspective of “field.” At the base of his metaphysics was, I think, the perception like this which Prof. Shizuteru Ueda mentions in his Works, II (Tokyo: Iwanami Shoten, 2002, p. 144): Emptiness/world. The slach “/” is God. I have been trying to envisage this perception by way of my threefold metaphysics: (1) God is loyal to Emptiness/Creativity; (2) Emptiness empties itself; and (3) God is the only one in the universe who can and does actually evoke loyalty in us creatures. Quite recently I added to the three principles my new discovery to the effect that the one who is loyal to the Divine loyalty is the Great Friend appearing in John 15: 15. The function of the Great Friend in the universe is to reciprocally relate the kingdom of heaven and the world. Jesus’ words attend to it: “Be perfect, therefore, as your heavenly Father is perfect” (Matt. 5: 48).

エコロジーについて真剣に考えるためには、宗教間対話の時代に最も重要なアイテムをなした、仏教的空(空自らを空ずる空)にもう一度論究する必要がありはしないでしょうか。我々日本の哲学者西田幾多郎は、「絶対無の場所」について語りました。彼は、空の東洋的(もとはと言えば、インド的)見地に依拠しました、そしてそれを「フィールド」(場)の角度から考えました。彼の形而上学の根底には、私の見る所、上田閑照教授が『著作集』第二巻(東京・岩波書店、2002年、144頁)において述べる感覚:虚空/世界、がありました。「/」(スラッシュ)は神です。私自身は、この観点を私の三重の形而上学の手法で観想しようと試みてまいりました:(1)神は空/創造作用に至誠である。(2)空は空自らを空ずる。(3)神は宇宙において我々被造者に至誠心を喚起することのできる、また現に喚起する唯一の御方である。ごく最近、私は、これら三原理に、ヨハネ福音書15章15節に出てくる御友こそ、神の至誠心に至誠なる方である、という主旨の新発見を付加する至りました。宇宙における御友の機能は、天国と世界とを交互的に関係づけることであります。イエスの言葉はここに触れます:「汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ」(マタイ福音書5章48節)。


Whitehead’s metaphysics of the Great Companion—the Fellow Sufferer Who Understands is well known (see PR, 351). Also, Pierre Teilhard de Chardin wrote two lines of his final thought three days before his death, 7 April, 1955: “The Universe is centered. Christ is its Center” (The Future of Man, New York and Evanston: Harper & Row, 1964, p. 324).

ホワイトとヘッドの、「偉大な仲間ーー理解ある一蓮托生の受難者」の形而上学はよく知られています(『過程と実在』原文351頁;ホワイトヘッド著作集第11巻『過程と実在(下)』山本誠作訳:京都・松籟社、1985年、2000年、625頁)。また、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンは、死の三日前、彼の思想の最後の二行を、1955年4月7日に書き残しました:「宇宙には中心がある。キリストがその中心である」(『未来の人間』324頁)。


I short, I am just wondering if you could combine your reference to the interdependent dynamics of Ecologies and the idea of Emptiness/world. Thank you.

これを要するに、私は、先生が、種々のエコロジーの相互依存的ダイナミックスへのご言及を「空/世界」の発想と結び付けることをなさることがお出来になるのでは、と思っているのであります。


Cordially,
Toki
敬具
トキ」

(2) Cobb, June 13: Dear Toki, I delight in your insights and your theological creativity. I certainly continue to find a remarkable similarity between Whitehead’s creativity and Buddhist pratitya samutpada. They both imply that there is no substantial self and thus a certain kind of emptiness. Whitehead, however, prizes the connection and cumulation of value made possible the ordering experiences into a living person. I think there are some Buddhist traditions that have analogous values, but certainly not all. Sometimes the emphasis on “emptiness” seems to count against the cumulation of value, but it need not do so. John

(2)カブ、6月13日:「親愛なるトキ、私は、あなたの洞察力とあなたの神学的創造性に喜びます。私は確かに、ホワイトヘッドの創造作用と仏教の「縁起」のあいだに著しい近接性を見出し続けています。両者とも、実体論的自己はなく、したがって、ある種の空があるということを含意します。ホワイトヘッドは、しかしながら、価値の連繋と蓄積が、諸経験を一人格へと秩序付けることを可能にすることを尊ぶのです。私は思うのですが、これと類似した諸価値を有する仏教的諸伝統もいくつかはあるけれども、勿論全部がそうではありません。時には、「空」への強調が価値の蓄積に反して意味づけられているようです、しかし、そうする必要はないのです。 ジョン」


(3) Nobuhara, June 13: Dear John, I thank you very much for this clarification because it has made clear that your address was pointing toward the importance of the connection and cumulation of value made possible the ordering experiences of various persons and communities involved in the Ecology movements, such as were seen so gigantic and marvelously shown at Claremont Conference in conjunction with IPN (International Process Network) and other societies, into a living and interdependent Person as Communities on Earth. I remember such an idea of Communitarian Person was in the philosophy of Josiah Royce which Hartshorne prized, right?

(3)延原、6月13日:「親愛なるジョン、このご説明誠に有難うございます。と申しますのも、先生のアドレスが、IPN(国際プロセスネットワーク)他との連携の中でかくも巨大な模様をなし、素晴らしい展開を示したクレアモント会議におけるごとく、「エコロジー」運動に関与している様々な人々と協働体との諸経験を、価値の連繋と蓄積が、秩序付けて、地球上の諸協働体としての活きた相互依存的人格へと至らしめることの重要性にむけて働いているということを、このご説明は明示するものであるからです。私は、「協働体的人格」の思想がジョサイア・ロイスの哲学に内在することを想起するのですが、これは(あなたの恩師)ハーツホーンが惚れ込んでいた思想でしたね?

Cordially,
Toki)
敬具
トキ」







本日の写真は、まず上に収めた私たちの花壇に咲く花たち――アマリリス・キキョウ・アガパンサスなどを収め、近くの広場に咲くクチナシなど雑草たちです。