延原時行歌集「命輝く」(第2170回)(須磨離宮公園の花しょうぶ園)

                     

         延原時行歌集「命輝く」(第2170回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(215−4)
先達やの歌、この道やの歌、哲学やの歌、思索なすの歌、カブ著拙訳上昇の歌、今成すの歌、いよよの歌、何故にの歌、神表現の歌、我やしもの歌、御友福音の歌、御友二態の歌、「復活の省察」中巻の歌、昂揚感の歌、神学一瞥の歌、行脚霊感の歌、主の祈りの歌(2015年5月1日〜10日)。

    5月5日
             神表現の歌十首

   神表現成す人やこそ御友とぞ覚るや嬉し随順の道(備考:ヨハネ15・15、熟読参照:「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」)

   神表現成すや規定と述ぶる人恩師ありてぞ己が事とす(備考:『純粋神人学序説』273頁、熟読参照:「純粋に神人学的に考える人間は、したがって、自分自身を一つの存在者として知っている。この存在者は一方では、絶対的に偶然的であり、あらゆる歴史的形態を持った規定から自由であり、他方ではしかし、何よりもまず、そのようなもろもろの規定とは比較にならないほど厳しい唯一の神の規定、すなわち人間は、まさしくはじめから終りまで、このような偶然的な存在者として自分自身の生涯において生ける神ご自身を表現すべきであるという、唯一の神の規定の下に立っているのである。このようなものとしての人間は、たとえ苛酷な歴史的状況にあっても、たえず希望に満ちている。」この文章は独特なり。人間の一般的規定「人間は神表現をなすべきなり」を述べつつも、それを充足するは「一つの存在者なる自分自身(即ち哲学者滝沢克己)なり」と言ふなり)

   神表現なすぞ規定にありとてもさなぬ人の身「友よ」に随喜(備考:これ我が「友よ」の神学の境涯なり。神表現をなすべきなるも、なし得ぬ無明の身見出すも、御友在りて「友よ、御神の事は我すべて聴きし事汝に告げん。」と言ひ給ふ故に、神学び成すなり。我が神表現は、その故に、この我の感謝の自己表現なり。これ絶後に死滅の底より神称ふる笑み浮かべし我妻の「絶後笑み増し」の境涯と一般なり。感謝すべきかな)

   御友さま我が底にぞや汝在りて我叫ぶとき汝叫び給ふ

   かくてこそ汝が叫びをば御神聴き汝も我もや挙げ給ふなり

   人生やその真実や復活ぞ御友と共に往くや嬉しや

   この道や己なし得ぬ神表現御友成す故「友よ」道言ふ

   我妻も絶後笑み増し往けるはぞ岸辺の主より御声ありてぞ

   この宇宙「友よ」の御声満ち満ちて如何な不幸も岸辺の主共

   我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す   (備考:復唱。この「底」「御友」なり)

             我やしもの歌三首

   我やしも二十代にて「何ぞ我?」学びしもその答へをぞ今に学ぶや(備考:「何ぞ我を?」なる説教=拙著『無者のための福音――プロテスタント原理の再吟味を媒介に』福岡・創言社、1990年=元々個人誌『雄鹿』第3号、1964年11月に掲載せしものなり。主イエス十字架上に「何ぞ我を?」と叫びし時、我の《根底的我》と成り給ひしなり、との覚り我得しもの書けり。「何ぞ我を?」の理解に関して、和解論におけるカール・バルトの未だ概念性の段階にとどまるを抜きて、「親鸞一人」に学びて《根底的我》に至りしなり。かくて我、受肉《Menschwerdung》を「我に成ること」《Ichwerdung》と捉へしなり。而してこれ、イエスの生涯の極点、十字架上にて、「復活への助走」なりしイエスの生への随順が、「復活への発条」に至りたるなり)

   我妻や驚愕のぞや驚愕の絶後笑み増す姿見し我

   我妻や笑み増す姿先駆けて御友御父の御許飛翔す 

         ♯                ♯


今回も上の「5月5日」の歌に加えて、今朝のメルマガ「風の便り」で届けていただいた「6月6日」の歌を収めます。


    6月6日
         心にぞ暖かき雪降りしきるの歌十二首

   心にぞ暖かき雪降りしきる御神二重の至誠なします

   先ず御神空に至誠ぞ次にはぞこの事御子や見かつ称ふや
   (備考:マタイ5・48節、熟読参照)

   称ふ時御子弟子にぞや御声かけ汝全かれ友よ言ひ給ふ   (備考:ヨハネ15・15、熟読参照)

   かくてぞや御友神学顕われし故こそ何ぞひらけにひらく
(備考:父子ひらけにひらくとは、復活なり。これぞ御友の招請極意)

   御神の二重の至誠なさるるや必然的に甦り生む

   かくなれば今生のみの命など「全き」実在およそ許さず(備考:アンセルムスの発見せし「信なくとも遂に神認識在り」との原理、ここより出ずるなり)

   御父がひらけに全くあるやこそそのひらけにぞひらく復活

   父子ひらけ在るに全き御父やこれ見て御友ひらけ往く哉

   これを見てひらけ往くぞや御友かな徹頭徹尾我ら友とし

   我はしも御友神学驚嘆す如何に真理の奥深きかな

   真理はぞ仏教的に言ふならば空即縁起御父是往く

   即ちぞ「空即縁起」父現成この事「承認」御友の真理 

            ホ氏や言ふの歌十首

   ホ氏や言ふ原初的なる神本性全創造の「前」ならず「共」
(備考:PR, 343: "Viewed as primordial, he is the unlimited conceptual realization of the absolute wealth of potentiality. In this aspect, he is not before all creation, but with all creation.)

   然らばや「共」は御神の属性と見做すことはや相応しからず

   神「共」に至誠なる事真なり真証しす帰結本性   (備考:証し世界に向けての事なり)

   そこにぞや顕れ出ずる物は何冒険宇宙現象統一
(備考:AI, 295: ”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.")

   現象の統一これぞ御友成す交互関係天地繋げり
(備考:PR, 351: "For the kingdom of heaven is with us today. The action of the fourth phase is the love of God for the world. It is the particular providence for particular occasions. What is done in the world is transformed into a reality in heaven, and the reality in heaven passes back into the world. By reason of this reciprocal relation, the love in the world passes into the love in heaven, and floods back again into the world. In this sense, God is the great companion, the fellow-sufferer who understands.")

   我妻や絶後笑み増し往ける如岸辺の主こそ御友なりけり   (備考:ヨハネ12・4、熟読参照)

   我れらはや滅して不滅間にぞ御友立ちます命歴々
   (備考:ホ氏や言ふ:”We perish and are immortal.”)

   学会の只中にてや瞑想す誠心ぞ透き通るごと

   ホ氏遂に「共」で始めて「中」でぞや神学びをば終るなりけり
(備考:終り是なり――PR, 351: "We find here the final application of the doctrine of objective immortality. Throughout the perishing occasions in the life of each temporal Creature, the inward source of distaste or of refreshment, the judge arising out of the very nature of things, redeemer or goddess of mischief, is the transformation of Itself, everlasting in the Being of God. In this way, the insistent craving is justified—the insistent craving that zest for existence be refreshed by the ever-present, unfading importance of our immediate actions, which perish and yet live for evermore.”この一節で重要なるは、大文字書きのところなり:”Creature”→the transformation of “Itself,” everlasting in the “Being of God.”)

   御神や遂には我ら招き給ふ最奥「共」の「中」へとぞ実に(備考:ヨハネ17・21:「父よ、それは、あなたが私の内のおられ、私があなたの内にいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをも《わたしたちのうちに》おらせるためであり、それに依って、あなたが私をおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」これ存在論的救済なり。主観的救済を絶えず越へゆき「神の存在の中に永久に憩う」これ存在論的救済なり)

補記 

昨日の延原さんのお電話では、今回の御講演で、準備された28頁分のペーパーは事前の主だった方々にお届けしたうえで、ペーパーを見ずに一時間、満足のいくお話ができた、ということも語っておられましたが、次のメール書簡は、今回日本からご参加の御夫妻へのものです。

この度の国際会議の様子を彷彿させるものですので、その一部分をここに補記させていただきます。

「・・・・・奥様共々学会にお運び下さり、大変感動致しました。
 真摯な学問研究の御姿勢、いつも尊敬いたしております。クレアモントでは色々な人にお出会いになったことでしょう。日本の学会の方々にお伝え下さい。
 私は、あの28頁のペーパーを読むのではなく、私共のTrack 6: The Role of Whitehead in Indigenizing Christianityの全員に一部ずつ事前にお渡ししたうえで、即興の演説の形で口頭発表をほぼ一時間首尾よく果たすことができ、大変満足致しております。”Thinking Seriously about Ecology”と言うような演説に相成りました。今度の大会によく出ておりましたように、エコロジーは今の時代のZeitgeistだと思います。20世紀の社会主義、20世紀後半からの宗教間対話、の後に出てきた「時代精神」でしょう。それだけに(今度の大会の雰囲気、お祭り気分に良く出ておりましたように)イデオロギー=虚偽意識の側面が気になります。
 そこで、私は仏教の空の場(西田の言う「絶対無の場所」)をエコの本義として踏まえたうえで、①この本義に神は至誠なる方である;②空は空自らを空ずる空である;因みにこの観点は大乗仏教の不可欠的貢献である(これはインドの智慧、仏教の貢献として、代替不可能な「実在」観であり、従ってキリスト教にも内在する、と力説しました);③神は宇宙において我々被造者に至誠心を喚起することのできる、また現に喚起する、唯一の御方である;④(今回始めての私の新発見といたしまして)宇宙において御友(the Great Friend)の中心的重要性は不可欠なものである(この点、シャルダンホワイトヘッドヨハネ福音書15・15、参照)――という所論を私のDivine Ecozoicsと言う形而上学の四点として指摘しました。
 人々は、エコロジーをEcology of the Worldとしてしか考えません。これがイデオロギーとしてのエコロジーの立場です。私はEcology of Godは不可避の主題であると主張致します。Divine Ecozoicsの立場です。そうして20世紀後半からの宗教間対話(ことに佛基対話)の遺産として「二究極者の問題」から深刻に学んで「空の場に神が至誠である故にこそ、神が世界に命の息吹としての至誠心を喚起する」と言うエコロジー・テーゼを唱えます。
 私は、世界的哲学研究課題として、なぜ日本の西田幾多郎は「絶対無の場所」という発想をするようになったのかの、徹底的研究が「エコロジーの時代」を真剣に考えるために、なされるべきであると、深く確信いたします。この課題は、次の大会の際、不可欠のテーマだと観じております。・・・・」





昨日は賀川記念館の西義人さんより新たな企画展ーー「賀川豊彦関西学院同志社明治学院展」ーーを準備してみてはどうかというご提案がありました。過日の「賀川豊彦明治学院の関係について」の記念館HPでのUPと記念館の機関誌「ボランティア」へのコラム草稿「奥憲義」(イエス団草創期に関西学院神学部より派遣されて活躍した神学生のひとり)が引き金になったようですが、早速昨日はあれこれと思いを巡らしてみました。さて、どうなりますか。


本日の写真は、「須磨離宮公園の花しょうぶ園」です。毎年この季節は人気の場所で、食事処も満杯になっていました。