延原時行歌集「命輝く」(第2166回)(百合と再び紫陽花)

                     

        延原時行歌集「命輝く」(第2166回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(214−7)友垣に御友ますの歌、我がヴィジョンの歌、墓前礼拝の歌、宇宙甦りの歌の歌、如何に真実やの歌、驚きぬの歌、人命の歌、新教危なしの歌、「友よ」神学の歌、我らが書の歌、友達作りの神学の歌、人方やの歌、げに笑みこぼるの歌、省察本の歌、目次の歌、英書の歌、御友真理の歌、我や知るの歌、驚きぬ不可逆真理の歌:滝沢哲学三原理(不可分・不可同・不可逆)再解釈に因みて、恩師最晩年の信の歌、跡ぞ麗しの歌、我やなすの歌、万事佳しとぞの歌、春の陽注ぐの歌、人生の歌、我はたとの歌(2015年4月21日〜30日)。

    4月29日
            万事佳しとぞの歌十首

   世の中の何がどうあれ我妻や絶後笑み増す万事佳しとぞ

   佳しとぞや言ふことやそも何あらむ万事御神の御手の内ほか

   我もしも絶後笑む妻見ざりしや如何な悲嘆に打ち沈むらん

   我や見し我妻ぞ笑む棺の内そこはかとなく歓喜溢るや

   この歓喜岸辺の主とや絶後笑む我妻の幸宇宙包みて

   宇宙のぞ底の底ぞや笑む妻を包みてあるよ妻や飛翔す

   かかること起こりてこそや慟哭や我がわざならず歓喜溢るよ

   世の人よ甦りとは宇宙事妻笑むやそれ宇宙笑むまま

   父子ひらけ輝き満つるこの宇宙招きてあるや妻甦り往く

   歓喜こそ溢れ溢るよ何処までも岸辺の主とぞ笑みつ御許へ

            春の陽注ぐの歌三首

   御神よ汝が導きの尽きずして絶後笑む妻我や省察

   青物をあまた麺麭とや食してや朝餉満喫春の陽注ぐ

   復活の説教なせと招きあり早速準備いそと始むや

    4月30日
             人生の歌六

   ここまでや詠ひ来りて我や知る復活なしに人生やなし

   人生や御友の御声ありてこそ御栄向ふ佳き日なるかな(備考:ヨハネ福音書17章24節、熟読参照:「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。」)

   佳き日をば夙に知りてや省献の笑みや浮かべつ妻祝福に往く

   我妻の箴言こそは甦り記せる文字と仄々と知る

   God blessed the good day
     Of self-reflection [in smile]
     And
     Self-dedication [in smile]
     [While passing into heaven]   (備考:延原信子英文箴言第一条、熟読参照)

   祝福やそも何あらう思ひ出のなべて天父に佳し言はるほか

            我はたとの歌四首

   我はたと息を止めたり御友のや御姿如何に不可欠かとや(備考:恩師『純粋神人学序説』273頁に以下の文字ありたる故なり:「それだから、彼が聖書やイエスの言葉や行為の導きのおかげで、あの隠れた現実の根拠と源泉を発見したあとでも、彼にとっては、この歴史的な形態は不必要にはならない。むしろ反対にその時はじめて、彼はいかなる決定的なことをこういう形態に負うているのか、彼にとって未来においてもこういう形態はいかに不可欠であるのか、ということを根源的に学ぶのである。」)

   その逆ぞ真実にして御友こそ「友よ」と呼びて我求め給ふ

   恐らくやこの世の根底のみの学そのニーズ超へひらけ呼ぶ見ず
(備考:これ誠滝沢純粋神人学、サルトルの実存哲学、ハイデガーの死への存在学、と範疇「世界内存在」を共にせる故なり。滝沢に根底(太初のロゴス:ヨハネ1・1・第一項)を超えて、その更に底に包括的なる「父子ひらけ」(神と共なるロゴス:ヨハネ1・1・第二項)ありて一切を包むこと見へてはおらずなり。見へておらば、人は根底よりさらに深き底に落るや否や、逆理的に、一切包括空間(pros ton theon)の底部(御子)より頂上(天父)目差して飛翔復活なすこと歓喜なすはずなり。然るに恩師たるや、以下の言説に止まるなり:「そしてまさにそのような、あらゆる比較をこえて絶対的に低みにある存在として、彼は言い表わしえない感謝と恥じらいとをもって、自分を高く位置づけることはまったく無意味であり、また自分自身の安心と活動のために、どこかに聖なる場所を捜し求める必要もない、ということを知るのである」(274頁)。さうではなきなり、「聖なる場所」(太初の栄:ヨハネ17・24)、「父子ひらけ」(神と共なるロゴス」ヨハネ1・1・第二項)そのものが我らを呼び給ふてあるなり)

   これ誠人生復活妻と共見る我にとり如何に違和(fremd)なる







延原さんは、米国での国際学会の大役を果たして、明日には新潟のご自宅に戻られます。画期となる今回の旅の中での新しい歌、大いに楽しみにしています。


昨日の日曜日、故郷の長兄から「母の七回忌」の日取りが決まったという連絡を受けました。

久々に「だんご三兄弟」がそれぞれ相方を連れ立って寄り合って、お寺とお墓にお参りです。

ボクは末っ子の三男坊で75歳、長兄とは7歳、次兄とは4歳の違いがありますが、お陰様で三兄弟みな達者でおります。

このような「法事」も家族の絆を確かめ合うのに役立っているようですね。来月半ばにちょこっと故郷に帰ってまいります。幼な友達にも再開したりして・・・・。


昨日午後は、土曜日にお話をさせていただいた「賀川豊彦明治学院の関係について」の草稿の整理にあたり、一区切りをつけましたので、今日からは次の新たな課題に向かって、頭の切り替えです。


さて、本日の写真は、いま美しく咲いている「百合の花」と「紫陽花」の再登場です。

ご近所をぶらり散歩をしていましたら、あるお宅の玄関先に珍しい紫陽花が咲いていて、花の手入れをしておられたご主人にお許しを得て、写真を撮らせてもらいました。

ご主人に花の名前とその由来をお聴きすると「アナベル」といったかな?とおっしゃっていました。ちょっと珍しい紫陽花で、うまく育てておられました。

まずその写真から、身近な紫陽花の花を並べます。