延原時行歌集「命輝く」(第2164回)(杏・梅・琵琶そして柘榴・・)

                    

         延原時行歌集「命輝く」(2164回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(214−5)
友垣に御友ますの歌、我がヴィジョンの歌、墓前礼拝の歌、宇宙甦りの歌の歌、如何に真実やの歌、驚きぬの歌、人命の歌、新教危なしの歌、「友よ」神学の歌、我らが書の歌、友達作りの神学の歌、人方やの歌、げに笑みこぼるの歌、省察本の歌、目次の歌、英書の歌、御友真理の歌、我や知るの歌、驚きぬ不可逆真理の歌:滝沢哲学三原理(不可分・不可同・不可逆)再解釈に因みて、恩師最晩年の信の歌、跡ぞ麗しの歌、我やなすの歌、万事佳しとぞの歌、春の陽注ぐの歌、人生の歌、我はたとの歌(2015年4月21日〜30日)。

    4月27日
             友飛翔の歌五首

   ノーちゃんや思ひ出なべて天父許棺焼くるとも奉献欣求

   かく思ひかく願ひてや我妻や絶後笑み増し往ける嬉しも

   これほどの清々しきや晴れ姿逝きし人にぞ我見しや初

   それ故に逝きし人とは言ふまいぞ笑み往きし人友飛翔佳し

   御友がぞ父よりなべて聴きしとて「友よ」と呼ぶや妻友飛翔
    
             御友真理の歌十首

   我がぞや学びし真理御友はや純粋神人学や破るも

   純粋の神人学や何言はん中間底や内容ならず
(備考:中間底=Middle Axiomを撥無する滝沢の言:「神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。まったく逆である。神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである。」『純粋神人学序説』272頁)

   「友よ」との我が神学や何言わん父から聴きて人呼ぶ御友
   (備考:ヨハネ15・15、熟読参照)

   此処ではや超越起源人接す理こそや御友なりけり

   これやこそ絶対矛盾自己同一純粋破る奇蹟なりけり

   我やこそ神表現の純粋態などにあらぬに「友よ」と御声

   罪の我にもかかわらず「友よ」とぞ御声ありたり御友いませば

   滝沢の神表現や何あらん偶有にして神示すとか

   誰がぞやその事知らむ答へはぞ哲学者なる滝沢一人

   謙虚にも父から聴きて「友よ」とぞ我らに告ぐる御友慕はし

            我や知るの歌三首

   先生も縛られぬとぞ言ひけるにゃよほどの決意ありたるやこそ

   恐らくは愛娘にぞ先立たれ冷厳事実知悉せるにや

   我や知る「友よ」と御声ありたるや御復活へぞ友飛翔そも   (備考:なあ、ノーちゃん。そう、お恵みよ、父さん)

           驚きぬ不可逆真理の歌
           滝沢哲学三原理(不可分・不可同・不可逆)
           再解釈に因みて二十首

   驚きぬ御友呼びかけ何あらう不可逆真理示されけるや

   かくて我滝沢哲学三原理不可分不可同不可逆悟る

   不可分や神人間のその底に父子ひらけのぞ控へしの様   (備考:ヨハネ1・1・第二項:父子ひらけ仏教にては空性なり)

   神人の一体なるや決してぞ神属性に非ずしてこそ

   一体や実在其の物ホ氏の言ふ創造作用仏教の空

   不可分に神人共に至誠なる存在論ぞ万物境位
(備考:The problem of ontological loyalty by God and creaturesと言はんか。この境位こそ、勝義の「自然神学」の課題なり)

   これ正に太初のロゴス示すもの存在論的至誠原理ぞ

   これはぞや有無や言はせぬ境位なりただ問はるるや態度の誠(備考:The problem of attitudinal loyalty by God and creaturesと言はんか。この境位こそ、「自然神学」から「啓示神学」への移行を示すなり。因みに、バルト達の「自然神学」への”Nein!”は、万物の存在論的境位としての「存在論的至誠」を見極める道理をそのものとして明らかにせぬものなり。「存在論的至誠」は、仏教では、空即縁起なり)

   あるがまま存在至誠承けてぞや神も人もや誠尽くすや

   事実はや神のみ至誠尽くし給ふ人は無明に落ちてや不誠

   ここにぞや不可同明ら天父がぞ全きがごと汝もかく在れ(備考:マタイ5・48、熟読参照。これ重要成る「不可同」のテキストなり。イエス明示し給へり。主イエス天父を観、人に語るの仲保者・御友なり)

   不可同を超ゆるは何ぞ御友のぞ愛の呼びかけ「友よ」なりけり

   これ正に不可逆にして父よりぞ発して人に「友よ」呼び掛く(備考:ヨハネ15・15、熟読参照。これイエスの「啓示神学」示す最重要のテキストなり。因みに、恩師の純粋神人学のアイデアでは、啓示神学捨象されたるなり。其のモチーフは、事実上、自然神学の境位なり。されど恩師、カール・バルトの用語法に押されて、「自然神学」の言辞用いること躊躇せること、周知の如し)

   ここにまで辿り来りて御友のぞ「友よ」の御声恩寵と知る(備考:因みに、滝沢純粋神人学にてや影をひそめしもの、啓示神学的恩寵論なりとは、不可解至極の事実なり)

   かくしてや「友よ」神学滝沢の三原理をぞ再解釈す

   恩師はぞ三原理をば同一の存在論の境位にぞ見し

   我や見る存在論や態度論恩寵論に変転すべし

   三原理再解釈の果てにてや御友尊さ謝する我なり

   父子ひらけ太初のロゴス御友あり神人間の不思議是なり   (備考:広大無辺宇宙における「三段階の不思議」と言はんか)

   形而上根源論や救済論いずれも「間」実にも神秘ぞ(備考:形而上学的「間」、根源論的「間」、救済論的「間」いずれも混同すべからざるものなり。父子ひらけ、太初のロゴス、御友の開示宇宙にありや。而して御友の御声「友よ」ありて、我らこれら三段階を逆に遡行する「甦り」に浴するなり――友飛翔恵まれつ。何たる歓喜ぞ、この宇宙に生享けしは!我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す)








昨日はしっかりと御湿りの一日でしたが、本日は早朝より、とても爽やかな日和ですね。

延原さんは無事、母校クレアモントに御着きになって、恩師カブ先生御夫妻とも再会されているころでしょうか。お約束通りにカブ先生が延原さんの英文著書の序文を書き下ろされる時も来たのでしょうか。

本日の写真は、最初が「杏」−−今年はただ一個、樹の上の方にーー、二枚目は「梅」--少し元気がありませんがーー、そして「琵琶」を三枚・・・そろそろもぎ取らせていただいてもヨロシイようデス。

私たちの住宅にも、またご近所の公園にも、いま「柘榴」の花が綺麗に咲き始めています。