延原時行歌集「命輝く」(第2155回)(久しぶりに長田港で海を眺める)

                     

        延原時行歌集「命輝く」(第2155回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(213−4)この成果の歌、Friends!--From Father、告げし折の歌、中巻やの歌、活写の歌、もしもぞやの歌、東西プ研企画の歌、我妻やの歌、友の断想の歌、進境やいざの歌、此度はやの歌、笑み二つ輝くの歌、御文ありの歌、従順の君の歌、我言はんの歌、イエス其処より「友よ」の歌、ぽつりぽつりの歌、入来の歌、歌と笑みの歌六首、霊感凄しの歌。(2015年4月11日〜20日)

    4月14日
              我妻やの歌四首

   我妻や浅野先生御文ぞやいと真摯なる有難きかな

   御自分を無信仰者と言はるるも事柄見るや曇りなき眼ぞ

   誠にやいと有難き御文得し我妻の幸喩ふべきなし

   実にもぞや御文中汝活きたるや我入来を切に感ずも(備考:でや、ノーちゃん。嬉しい、有難い、言ふことないわあ、父さん)

             友の断想の歌四首

   我昔兄弟団を始めしや礼拝後にや友ら遊歩す(備考:1964年発足の加茂兄弟団、日曜礼拝後兵庫県川西市の野山にゼミ遊歩に行く常なりき。その一日の記録此度の書『復活の省察』[前巻]第二章「Re-missio Peccatorum: 罪人達の赦し即再派遣」〈『Bambino』第5号、1966年11月〉なり)

   その一人安土君ぞや逝きし知るきらり光れる断想想ふ

   断想を御神に献ぐ君なりきここに録さむ永久の記念に(備考:「断想」 伊丹市南野東安堂寺551 加茂兄弟団 安土亮
        一
   神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神は光を見て良しとされた。    (創世記一・3)
 その日は何か意識の高まりを感じていた。日は没した。あたりは濃い硫酸銅溶液にひたった。月は中天より西に移動しながらその輝きを増した。そうして一番星のシンチレイション。ハッと思った。創世記の神の「良し」、GOOD。一瞬、万物の内奥に潜む神の「良し」の声を聞いたかのようであった。万物は全てこの神の「良し」という声に支えられているのだ。被造物は創造者のこの「良し」への賛同を喜びとする。神の「良し」への賛同の表現、これがあらゆる学問・芸術・宗教の意味ではなかろうか。
        二
   アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。             (創世記一五・6)
 アブラハムはウルの地を脱出した。彼の中には未知なものへの不安があったにちがいない。しかしそれ以上に「無から有を呼び出される」神に対する信頼の火が静かにそして確実に燃えていたにちがいない。彼は自分自身の変革を実験に求めた。この実験への勇気こそが信仰の生命であり、エネルギーであることを実験によって私達に教えてくれたのだ。魚類が水中から、より明るい広々とした未知の気圏を求めて脱出を試みたとき、かのエラは肺に、ヒレは足に変化したのだった。(実際はエラが消失し、うきぶくろが肺になったと考えられている。)神はアブラハムを「義と認められた。」旧約聖書においては、神の思惟は神の行為と不可分である。神がアブラハムを義と認められたとき、神はアブラハムに働かれた。ルターの信仰義認を「実験」において受取り直すべきではないだろうか。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者および科学者の神にあらず。」(パスカル「メモリアル」)近頃このパスカルの言葉が口ぐせのように出てきてしかたがない。
        三
   すると天から声があった「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マルコ一・11)
 一日の汗を洗い流して風呂から出て来た。冷やかな風にホッと溜息がついて出た。台所は真っ暗であった。その中を通り抜けながら思った。私は暗闇を行く。像を描きながら。何の手がかりもない。何のささえもない。私はその像のみを頼らねばならない。絶対化しなければならない。しかも怯えながら。暗闇―想像ー恐怖。ああ私は盲人なのだ。洞窟の暗闇の中で一生涯暮している魚類、昆虫等のように目を失ってしまった。
 光、光において動物は目を持つ。私は光に照らし出されたものを見る。それは感動である。そして私の心は畏敬で満たされる。光―感動―畏敬。
 福音は新しい光の誕生の宣言である。宇宙に向かっての宣言である。神の心にかなう者において、私はこの世を見なければならない。ちょうど太陽において全てを見る如く。私の背景は暗闇である。しかし前方に光が輝いている。光を見て歩め。
        四
 聖書を読んでいて「良しとする」「義と認める」「心にかなう」という言葉に引かれた。それについて瞑想し、また日頃かんがえていたことを結びつけてみた。私は聖書の中に「良しとされる」→「義と認める」→「心にかなう」というトーンがベースに流れているのを感じた。(『Bambino』, No. 2, 1966年8月, 8-9.)    

   友人の中井君のぞ葉書よし簡潔にして愛情溢る(備考:中井博義君御葉書2015年4月5日付、感謝無尽も!:「前略 長い間、ご無沙汰いたしております。いろいろお世話になりっぱなしで申し訳けなくおもっております。とても残念な御報せですが、安土亮君が去る三月二十三日に死去されました。去年目の手術に成功され、ほぼ十年ぶりに、見えるようになり、喜んでいましたのに。死因の詳細は分かりませんが、「うつ病」による様です。妹さんに「お母さんのところへ行きたい」と言っていたようです。二十四日通夜、二十五日葬儀、ヤマギシの皆さんに見送られたそうです。とり急ぎお知らせまで、失礼いたします。」)


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今朝も上の「4月14日」の歌に加えて「今日の歌」より次の歌を収めます。


          〇(5月28日)時や未来の歌四首

   我妻や絶後笑み増し浮かべてやこの世の幸を超ゆる幸生く

   そのことの如何に稀有なることなるか我も味合ふ時にぞ知らむ

   この幸や全てを御父御許にて過去脱するの時とこそ知る

   帰り来ぬ思ひ出非ず御許にて御父とぞ知る時や未来ぞ

            アンセルム麗しの歌六

   アンセルム信ぜずともや神知るの照明やあり告げし麗し(備考:これアンセルムス『プロスロギオン』に於ける神証明の極北なり。"I thank thee, good Lord, I thank thee, that what I at first believed because of thy gift, I now know because of thine illumining in such a way that even if I did not want to believe thine Existence [ut si te esse nolim credere], yet I could not but know it.” See Karl Barth, Anselm: Fides Quaerens Intellectum. Anselm’s Proof of the Existence of God in the Context of his Theological Scheme, SCM Press Ltd., 1960; Reprinted by arrangement 1975, The Pickwick Press, p. 170.この一節、マルティン・ルターの信仰義認に勝れるなり)

   仮令人自死せる不幸ありともや御神光ぞ罪超ゆるとは

   新教の信仰義認我が信を経巡りてぞや神学び無し

   御神の恵み御心我が信の不信のぞ言ふ埒超ゆる哉

   かかること御神御許で人知るや感涙滂沱あることぞかし

   人よ汝未来無きとぞ泣く莫れ汝が未来はぞ御父御方


補記

さらに「今日の歌」より次の二首を加えます。


          〇(5月28日)昨晩やの歌二首

   昨晩や英文稿の語るやは岸辺の主のぞ復活学ぞ(備考:第一部Divine Ecozoicsから第二部Whitehead’s Adventure or Resurrection Metaphysicsに歩み進めしなり。先ずヨハネ21・4の「岸辺の主」学闡明す。これ我妻の絶後笑み増しの「処」なり)

   記述はぞごく簡素やもげに深し御友こそぞや岸辺の主なり(備考:”Just after daybreak, Jesus stood on the beach; but the disciples did not know that it was Jesus."に無限の形而上学的含蓄あり:岸辺の主「復活者」はぞ、「我らが親しき」御友なりけり!)




昨日午前中は地元の、夜はある法人の会議などあったりしましたが、来月早々に明治学院校友会が神戸で開催され「賀川豊彦明治学院との関係について」小話を求められていて、賀川の母校・明治学院における青春の日々を、あれこれと思いめぐらす一日でした。


William Axling の1932年(昭和7年)に著した『KAGAWA』が最初の賀川伝のようですが、2年後の昭和9年には鎗田研一の大著『伝奇小説・賀川豊彦』が登場し・・・戦後になって昭和25年に横山春一の『賀川豊彦伝』が、そして昭和27年には浅野晃による『贖(あがない)REDEMPTION−賀川豊彦の小説化』が登場するなど、賀川が1960年にその生涯を終えるまでに、いくつもの作品が現れて、その中に「明治学院」で学んだわずか二年間のドラマが綴られています。賀川は明治学院予科を終えて「神戸神学校」に転向し、学生をしながら神戸・葺合新川」への「献身」へと導かれてゆくのですが・・・・。


本日の写真は、ふと海が見たくなって、久しぶりに「長田の海」に出かけ、しばしのんびりと、釣り人や海辺に泳ぐ亀さんを眺めたり・・・。