延原時行歌集「命輝く」(第2141回)(若樹と空と)

                    

        延原時行歌集「命輝く」(第2141回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(211−10)忽ちにの歌、御友との道の歌、新しき驚きの歌、仄々との歌、げにの歌、我にとりの歌、御声の歌、朝夕にの歌、妻笑みの歌、神学びの歌、驚きぬの歌、御声従順の歌、命ずるは言の歌、絶対他者即絶対自者の歌この時代の歌、燦の歌、天父に捧ぐ歌、我妻やの歌、嬉しきの歌、往くの歌、春の歌、面白きかなの歌、蜻蛉の歌、妻や見事にの歌、昨晩やの歌、天と地にの歌、ひらけへとひらけ飛翔の歌(2015年3月21日〜31日)

    3月30日
            妻や見事にの歌四首

   何があり何が無くとも妻の笑み見るやたちまち呵々大笑   (備考:2012年6月17日古稀写真の笑みなり)

   活力に満ち溢れたる汝が笑顔この宇宙にて復活証人

   我妻や絶後笑み増し往きし折今ぞこの時笑みや五変化(備考:2014年3月11−13日:死去、前夜式、告別式。①悟入、②想起、③基督足下に発見、④称名、⑤右眼ほのと開け天父御許往く)

   今や知る五変化の笑み証人を妻や見事に果たせるすがた
(備考:ノーちゃん、立派でしたよ。父さん、有難うございました)

             昨晩やの歌三首

   昨晩や魚沼米の銀シャリに鱈鍋つつき誠佳かりき

   原信に常の如くに愛車漕ぎ見定めたるや鱈ねぎ白菜

   悠然と米をとぎては豚豆腐ともに仕込みて歌や詠むなり


        ♯              ♯


今朝も上の「3月30日」の歌に加えて、「昨日の歌」の中から次の十一首を収めます。


        〇(5月13日)不実教と御友飛翔の歌八首

   日ノ本に誤訳教あり基督教未だ無きなり虚仮不実そも

   この不実打つものこそや御友愛父から聴きし「友よ」と告ぐや
(備考:ヨハネ15・15。御友神学、父から聴くに超越発源すも、「友よ」と呼ぶに中間底あり。超越発源、恩師言ふ「第一義の神人接触」なり。「友よ」と呼ぶに、滝沢純粋神人学の嫌う「特殊的・史的な形態」(『純粋神人学序説』272頁)豊かにあり。しかも、恩師がバルトに抗して「イエスの姿に縛られず」と言ふに対して、御友神学は「友よ」と呼び給ふなり。即ち、縛らず関わるなり。滝沢がその恩師カール・バルトを批判して「先生は、この永遠に支配的な源としての事実が、『あそこで当時』ゴルゴダで起こったあのことを通して初めて実在的かつ事実的になったかのように、したがって以前は単なる一つの可能性あるいは単純な『手続き上の何か』だったかのように考えまた発言しておられることを、私は見逃すことができません。」(『カール・バルト滝沢克己往復書簡:1934−1968』173頁)と言ふに対して、徹底して御友神学は「友よ」の呼びかけの愛の豊かさに生くるなり。「父子ひらけ」に発源しつつ、「父子ひらけ」への招待を「友よ」との呼びかけに明らかに示さるごとし。滝沢は、インマヌエルの原事実・第一義の接触と第二義の接触・イエスの人間的姿の間の「区別」を強調して、二者の間の「関係」をーー「縛られず」の文言にて不鮮明のままにせるを――御友神学は「友よ」と呼びかけ明示するなり)

   今生の人ども主イエス愛すると如何に競ふも父子ひらけ無知

   父子ひらけ知らずに何を基督教ヒューマニズムの傲り可笑しや

   我知らずこの虚仮不実誤訳教何時まで天地欺き得るや

   御友こそ深き低みの底よりぞ絶後笑み増す妻ひらけ召す

   我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す(備考:「底」父子ひらけの底部=御子御友にして、頂上=御父へと逆転飛翔す。これ御友と共なる甦りなり)

   我が恩師深き低みに鎮座すやその底往かずいかで飛翔や

           「友よ」嬉しやの歌三首

   恩師はやイエス姿に縛られず原事実往くイエスと競ふや(備考:これ滝沢哲学の根本動機ならむも。滝沢に、イエスの姿から「父から聴きて『友よ』と呼びます関係性」消さんとの意図ありと感ぜらるるも)

   御友はや「友よ」と呼びて原事実示し給ふよ有難きかな

   我はしも御友神学発見す父から聴きて「友よ」嬉しや





芽吹いた木々の若芽と空を撮りました。

昨日は花壇を盛り立ててくれたジャスミンのサンパツをしました。
数日前のビフォーと昨日のアフターです。こうしてまた、新しい花を咲かせます。



今回はもう少し「芽吹いた木々の若葉と空」を加えます。