延原時行歌集「命輝く」(第2142回)(雨に濡れる住宅の中庭の花壇)
延原時行歌集「命輝く」(第2142回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(211−11)忽ちにの歌、御友との道の歌、新しき驚きの歌、仄々との歌、げにの歌、我にとりの歌、御声の歌、朝夕にの歌、妻笑みの歌、神学びの歌、驚きぬの歌、御声従順の歌、命ずるは言の歌、絶対他者即絶対自者の歌この時代の歌、燦の歌、天父に捧ぐ歌、我妻やの歌、嬉しきの歌、往くの歌、春の歌、面白きかなの歌、蜻蛉の歌、妻や見事にの歌、昨晩やの歌、天と地にの歌、ひらけへとひらけ飛翔の歌(2015年3月21日〜31日)
3月31日
天と地にの歌十三首
天と地に妹背求むは何あらむ復活省察一つ心に
命がや今生だけならいざ知らずこの務めほど尊きは無し
笑み往くや太初の栄映す妻ひらけにひらく宇宙観る我
待てるはや父子ひらけなら往くはぞや岸辺主と笑む我が妻ぞげに
かくしてやひらけにひらく交互宇宙観てや成るもの復活学ぞ
畢竟ぞ個物存在有するの実存主義去りあいだあるなり
子と父のひらけの間にぞ包まれて太初栄光永久に拝さん (備考:ヨハネ17・24、熟読参照)
拝しつつ成るは究極省察ぞ父子に与ふ栄や見んと
栄はや父子に与ふ過程なら決して実存ならぬ絆ぞ
この絆我ら見てまた包まるるイマヌエルのぞ喜びや成る(備考:父子の絆に包まれて「イマヌエル」神と共なる喜び成就するなり)
イマヌエル神と共なる喜びやこれぞ永久なる命なりけり
笑む妻や神と共なる喜びの現在に在りいかに幸なる
かく覚りかく喜びて省察をなす恍惚に在る我も幸
ひらけへとひらけ飛翔の歌二十二首
宇宙観ひらけにひらけ成るものや最近発見いと悦ばし
されどもやこの宇宙観我妻の笑み増しありて見へしものなり
ホ氏の言ふReciprocal Relation奇しくもや合致なりたりいと嬉しくも (備考:PR, 351)
天と地や交互関係なすことやホ氏の慧眼ハイデガー超ゆ
実存の哲学なるは自己主義ぞ自己の偶有本質の先
恩師のぞインマヌエルの哲学や自己と「偶有」一とすなり
(備考:「偶有」=Kontingenz=太初のロゴス[ヨハネ福音書1章1節第一項]なり)
この「一」や不可分不可同不可逆の原事実なり不可分や佳し
神人の不可分と言ふ際にぞやこれ神属性とせざる肝要
それでこそ原点包む包括者父子ひらけぞや実在と見ゆ
ひらけにぞ父も子も共至誠なり父至誠そも見て言ふは子ぞ (備考:マタイ福音書5章48節、熟読参照)
父至誠見て言ふにこそバルト言ふ御子の従順所在するなり
(備考:これ我が見解にして、バルトの論に非ず。バルトは父のひらけへの至誠言はず)
御子のぞや従順終局陰府にまで下りたる果て底の底飛翔
底はぞや滝沢原点されどもやその底なるは父子ひらけなり
(備考:原点=ヨハネ1・1・第一項「太初のロゴス」;底の底=同第二項「神と共[pros ton theon]なるロゴス」なり)
終局に御子従順にひらけへと底の底より飛翔復活
復活や然るが故に己の原点そのものあらずその底飛翔
我妻や絶後笑み増し御国往く父子ひらけへと笑みひらけ飛翔
補遺
底の底ひらけ底辺いざやこそ頂上天父御許に飛翔
底の底ひらけ宇宙の底辺部この理法こそ交互支ふも
この理法恩寵にして地の底に貫徹成せる天父愛情
底の底岸辺の主にぞ他ならぬ交互宇宙の蝶番なり
誠にや底の底にぞ「内働」す天父愛情御友の便り(備考:御友の便りこれなり:「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」ヨハネ福音書15章15節、熟読参照。御友と天父の関係個と個の実体論的区別に非ず。御子は御父を「代表」し、御父御子のうちにて「内働」す。この尊き事理、「栄光」「み名」ほか一切のキリスト論的称号に一般なり、貫徹す。これ我が最新の発見なり)
友方よ二首
友方よ人生底に汝在るかそのまだ底に御友いませり
我妻や絶後笑み増し岸辺主と往けるや誠人生誠(備考:なあ、ノーちゃん。あんたの経験した復活は万人の「人生真」やなあ。そやで、父さん、ずぼし! 嬉しい嬉しい)
♯ ♯
今朝も上の「3月31日」の歌に加えて、延原さんのメルマガ「風の便り」の「今日の歌」の中から、次の十首を収めます。
〇(5月15日)称名の歌十首
称名や御友三段進み往くIXIA!(イクイアーメン)歓喜の調べ
「友よ」呼び「何ぞ我を?」と叫びては御友内住「イマヌエル」飛翔(備考:ヨハネ15・15:「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。私の父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」→マルコ15・34:「そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」→ヨハネ17・24:「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所(注。父子ひらけの場所=ヨハネ1・1・第二項:「言は神と共に(pros ton theon)あった。」=)に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さってわたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。」)
御友はぞ「友よ」と呼ぶや「何ぞ我?」叫びて飛翔「イマヌエル」かな(備考:「何ぞ我?」の十字架上の叫びにて御友我が根底に「我」成り給ふ。彼の叫びは我の叫びなり。彼が見捨てられしは我が見捨てられしなり。受肉の真実は、一般的に神の御子「人と成り給ふ」尊き真実[Menschwerdung]なるも、さらに立ち入りて、神の御子「我と成り給う」根底的真実[Ichwerdung]なり。かくて、御友真に我が根底の御友なり。それ故、彼の欣求聴きて御父御友甦らし給ふ時、御友「岸辺の主」=ヨハネ21・4=として「我」と共飛翔さるるなり。生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す)
低みがぞ如何に深くやありけるもその底飛翔イマヌエルなり
イマヌエル「言」「神とぞ共なる」に容れらるるゆえ成るや嬉しや
イマヌエル「太初の言」「神と共」なリ給ふ故誠在りける
それはしも飛翔ありての真実ぞ「太初の言」のみにてや無し(備考:「太初の言」とは「世の始」の事にして、換言すれば、「世の根底」なり。根底に「神と共」(インマヌエル)の意義生ずるは、ひとえに「言」「神と共なり(pros ton theon)」(ヨハネ1・1・第二項)に裏打ちさるる故にして、この消息の解明は恩師純粋神人学にはなきなり。「太初の言」のみの注視にてなるは、in-der-Welt-sein (Heidegger)の真実の見極めにして、そこに「父子ひらけ」への飛翔・移行なきなり。これにては、インマヌエル学の窮極省察未だなし)
称名や誠喜び此処に在りインマヌエルぞ称ふ嬉しや
昨日も午前中、花壇の土づくりに汗を流しました。
予報通りに、午後にはたっぷりと、いい雨にめぐまれました。
本日の写真は、久しぶりに住宅の中庭の、雨に濡れた花壇を撮りました。
土づくりを進めている花壇の方のアマリリスも加えます。