延原時行歌集「命輝く」(第2134回)(神戸・相楽園の楠の大木とアヤメと)

                     

        延原時行歌集「命輝く」(第2134回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(211−3)
忽ちにの歌、御友との道の歌、新しき驚きの歌、仄々との歌、げにの歌、我にとりの歌、御声の歌、朝夕にの歌、妻笑みの歌、神学びの歌、驚きぬの歌、御声従順の歌、命ずるは言の歌、絶対他者即絶対自者の歌この時代の歌、燦の歌、天父に捧ぐ歌、我妻やの歌、嬉しきの歌、往くの歌、春の歌、面白きかなの歌、蜻蛉の歌、妻や見事にの歌、昨晩やの歌、天と地にの歌、ひらけへとひらけ飛翔の歌(2015年3月21日〜31日)

    3月23日
             御声の歌十一首

   我悟る父子ひらけこそ究極場ひらけ往くこと甦りなり

   さらば問ふ父子ひらけをば告ぐる声出だす御方そも誰なるか

   イエス言ふ汝らの父全きやその如くにぞ全かれとぞ

   父はぞやひらけに誠なる方ぞその如く汝誠なれかし
(備考:マタイ福音書5章46節:「あなたがたの天の父が全きがごとくあなたがたも全かれ」)

   父のぞや誠なること父言はずただ御子のみがこれを見て言ふ   (備考:父御子に「内働」すなり)

   正しくや御子ぞ言(げん)にて在してや父の如くに誠なれ言ふ

   かく言ふや言(げん)正しくや受肉せる人なる事ぞなかるべからず

   かくしてやイエスの言(げん)や形成し御友としてぞ現れ給ふ

   我もはや汝らをぞや僕とは呼ばぬ友とぞ呼び遇すなり

   何故ならば父から聴きし一切を汝らに告げ知らせたる故   (備考:ヨハネ福音書15章15節)

   仄々と我悟りたり御友こそ岸辺の主なり父子ひらけまで(備考:復唱。これイエスのキリスト論的三段階なり。我見るに、恩師純粋神人学にては、イエスに助けらるると言ふも、イエスから岸辺の主=復活の主=を通りて父子ひらけ=包括的ロゴス=まで往くこと定かならず。「イエスに縛られず」と言ふ故なり。滝沢においては、イエスの神格化批判する故、右のキリスト論的三段階定かならず。故にキリスト論的救済観に綻びあり。「インマヌエルの原事実に向かう」と言ふも、向うプロセス定かならず。滝沢の重要テキスト再度明示す:「それに対して、純粋な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルトと共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分・不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。まったく逆である。神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたくむすびついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである」『純粋神人学序説」272頁、熟読参照。これに対して我々は、「御友」を滝沢の言ふ「特殊的、具体的にして史的な形態」として戴く。御友こそ、キリスト論的三段階の史的結節点なるが為なり。バルトの和解論においては、御子は神の子の従順der Gehorsam des Sohnes Gottesにおいて在ることが終始一貫強調さるるも、神の至誠が強調されることあらぬなり。我々は「神の父子ひらけへの至誠」を「神の子が見て言ふ」所に従順ありとするなり。ここに我らの「至誠心の神学」のユニークネスありと観ずるものなり。神の「父子ひらけ」への至誠を見て言ふところに、受肉の御子イエスの従順ありとするは、新しき神学なり。この神学は、父子ひらけを仏教的空と同定する故、仏教との対話観に立つ。その点、バルトのこの点での非対話的姿勢を匡すものなり。今日はここまで認識が進みたるを喜ぶ。我が短歌神学は一歩一歩なり)

             朝夕にの歌一首

   朝夕に闘病中の友のため我祈る主よ天来の癒し給へや

             妻笑みの歌四首

   我妻や絶後笑み増し岸辺主と父子ひらけへとひらけ往きしも

   この笑みや人生神学確として思ひ出なべて天父奉献

   人生や死して滅ぶと思ひきや岸辺の主共妻笑みこぼる

   復活の妻笑みにぞや優るものこの世に在るや我や知らずや

            神学びの歌三首

    (一)主題

   妻と共この天地にぞ生を享け神学びなす如何に楽しき

    (二)焦点

   かにかくに人は言ふとも我らが書復活窮む歓びに満つ

    (三)道場

   妻と共復活の家建てし事誠摂理と思ひつ励む
        ♯              ♯

今朝も上の「3月23日」の歌に加えて「今日の歌」より次の五首を収めます。一歩一歩仕込みの進む『復活の省察ー妻と歌う』中巻の特別のお披露目ですね。

        〇(5月8日)「復活の省察」中巻の歌五首

   中巻や我が畢生の思想編み我妻笑みと合す嬉しや

   「友よ」呼ぶ御友神学誕生す父子ひらけまでひらけ往くなり

   「何ぞ我?」叫びし時も御友はぞ共にしあれば我も飛翔す

   我妻や箴言修行励みしや憂ひ跡なしカンファレンス佳し(備考:カンファレンス=我新潟リウマチセンターによる一泊して妻と箴言練りたるやこそ)

   復活の形而上学完成す交互関係宇宙洞徹



この季節、はやくもホタルを観たという方や、トオカラトンボが飛んでいたという方などおられます。景色もずんずん、進んでいます。

今日の写真は、神戸・相楽園の名物の一つ「楠(樟)の大木」を眺めて見ます。

何度も眺めてきましたが、今回はじめてのアングルも数多くあります。



園内の一角、池のそばにアヤメ(?)が咲いていました。



もう少し「楠の大木」を加えます。