延原時行歌集「命輝く」(第2132回)(神戸相楽園の「山野草展」と「邦楽ライブ」)

                     

        延原時行歌集「命輝く」(第2132回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(211−1)
忽ちにの歌、御友との道の歌、新しき驚きの歌、仄々との歌、げにの歌、我にとりの歌、御声の歌、朝夕にの歌、妻笑みの歌、神学びの歌、驚きぬの歌、御声従順の歌、命ずるは言の歌、絶対他者即絶対自者の歌この時代の歌、燦の歌、天父に捧ぐ歌、我妻やの歌、嬉しきの歌、往くの歌、春の歌、面白きかなの歌、蜻蛉の歌、妻や見事にの歌、昨晩やの歌、天と地にの歌、ひらけへとひらけ飛翔の歌(2015年3月21日〜31日)

    3月21日
            忽ちにの歌三首

   忽ちに佛基対話の復活や読書界にぞ今入るや見ゆ(備考:我が観察なり。忽ちと言ふは、『カール・バルト滝沢克己往復書簡:1934−1968』(2014年)上梓ありてからなり。我が『仏教的キリスト教の真理』(1987年、1999年、2007年)も『ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>ーー仏教的キリスト教哲学の構想』(2001年)も同時に上昇せり。面白き現象なり)

   称名ぞ忽ちにぞや伝はりてJesus Christ Immanuel Amenですね!と御文(備考:株式会社TKB 代表取締役社長佐多保彦氏より2015年3月17日付御書簡あり、感謝無尽も:「延原時行先生 株式会社TKB代表取締役社長佐多保彦 前略 この度は、ご著書『復活の省察(上巻)、資料を御恵送いただき有難うございます。お心遣いに感謝申し上げます。/ 現在、2カ所のオフィスを行き来しておりますので、ご参考までに名刺を同封させて頂きます。/ 春分の候、ご自愛ご健勝のほどお祈り申し上げます。/ 一筆、御礼までに。草々
 同封: 名刺1枚
 ごぶさた致しております。秋月先生とのご縁で先生と(1992年夏仏教とキリスト教研究国際会議ボストン大会にて)お近づきになりました事が昨日の様に思い出されます。/ Jesus Christ Immanuel, Amenですね!/ お元気で! Y. Sata」拙著謹呈の言葉の末尾に、IXIA! [イエスース・クリストス・インマヌエール・アーメン!「イエスはキリストであるとは、神我らと共にいまし給うとの義である。まことに然り。」]と書きおりしに対するお応えなり)

   壇上に我呼びかけぬ大いなる抱負抱きて一歩踏み出せ
(備考:第21回敬和学園大学卒業式:聖籠町町民会館にて、来賓・名誉教授としてなり)

            御友との道の歌十二首

    (一)観念教そも

   何時までや復活誤訳そのままに日ノ本基教生きんとするや

   最大の不服従とぞ我言はん罪の赦しの十字架教そも

   矛盾なり十字架までは信ずるも復活主なく誰が赦すや

   総じてや観念教に他ならず後は皆これ人が為すとす
   (備考:十字架教――観念教ーー人為教)

    (二)ひそと笑み往く

   我妻や絶後笑み増し岸辺主と歓び勇み往くや御国よ

   我妻やこの時代にぞ召されてや復活主をば証し笑み往く

   我らが書復活省察解一つひそと笑み往く妻が勇姿ぞ
    (三)称名いのち

   復活主称ふものとて何あらむIXIA(イクイアーメン)日毎のいのち

   イエスースクリストスああイマヌエル深まり行くや御友なる主よ

    (四)御友との道

   主イエスがぞ友よと我ら呼び給ふ父より聴きしなべて伝ふと

   なべてとは父子ひらけのぞ歓びぞ友よ往かんぞ御国までいざ

   この国に称名響く復活の新しき道御友との道 

            新しき驚きの歌五首

   絶後にぞ妻口丸め神称ふ見し時ほどの驚愕やなし

   絶命の驚き超ゆる新しき驚きの時神祝します

   この時や妻の笑みへの驚きや宇宙笑むとの驚きひとつ

   この宇宙父子ひらけにて成るものぞ未来底とぞ我呼ばん

   現在の底の底まで落ちたらば岸辺の主あり未来運ぶや

   未来とは天父のことぞ底の底御子のことなり一直線や
          ♯            ♯

今朝も上の「3月21日」の歌に加えて「今日の歌」のうち次の十首を収めます。

          〇(5月6日)御友福音の歌十首

   仄々と我悟りたり福音や「友よ」と呼ぶや御友ありてぞ   (備考:ヨハネ15・15)

   御友はや十字架上に「何ぞ我?」叫びて《我》となり給ひしぞ
   (備考:マルコ15・34)

   「何ぞ我?」これ主の祈り他ならじ聴くや御父や御子を引き挙ぐ
(備考:マルコ15・34=ヨハネ17・5=マタイ6・9=へブル5・7=ピりピ2・11。十字架上に主イエス「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。我が神、わが神、何ぞ我を見捨て給ひし」と絶叫し給ひけるは、詩篇22篇1節にて、夙にヨハネ福音書17章5節に御父に願ひ給ひける祈り「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい。」を、辞世の歌となし給ひたるなり。ヨハネ17・5は、弟子の聴く所でのみ主の祈り給ひたるリハーサルなりき。これ、公の歴史的場なる十字架上にて、主は辞世の絶叫と成し給ひたるなり。所謂「主に祈り」において「み名を崇めさせ給へ。」とあるは、我の見る所、ヨハネ17・5の言い換へに他ならず。すなわち、マルコ15・34の絶叫「何ぞ我を?」において否定形にて表されたる主イエスの祈りなり。マルコ15・34の絶叫がヨハネ17・5の「我が太初の栄光を輝かしめ給へ。」なる祈り(真の主の祈り)を含むこと理解せざるべからず。この事へブル5・7も傍証せるものなり。かくて、主イエス御父に依り甦らされたるなり。そのこと、「御栄の、父に依る、華やがせ」なること、ピりピ2・9にては、「すべての名に優る名を賜わる事」と言はれおるなり。これ、マタイ6・9にては、「み名」とさるるなり。「み名」とは、それ故、「キュリオス=主」のことなるが、同時に「父による、イエスへの、キュリオス=主なるキリスト論的称号の、命名行為」なる事、注意すべきなり。ならば、「み名」とは、「イエスが主である」み名と、このみ名を父がイエスに与ふる命名行為との両方を表すなり。所謂「主の祈り」における「天にまします我らの父よ、願はくば、み名を崇めさせ給へ。」なる第一祷における「み名」は、かかる事情の全体を含みつつ、主イエス基督なると同時に「父の命名行為」を意味せるものと取るべきなり。かかるものとして、「み名」は、「復活者」と父による「復活行為」の両者を含むなり。個物と関係性の分離はここにはなきなり。即ち、「復活者」は「父に依る復活行為」なり。かかる意味におきて、「復活者」は、「父に依る復活行為のプロセスの全体」なるなり)

   十字架上御友絶叫願ひしや「太初栄や華やがせ父」
   (備考:ヨハネ17・5)

   復活主「これら一切より我を愛するや」とぞ訊き給ふなり(備考:ヨハネ21・15。因みに、「この人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」は聖書協会訳、新共同訳によるものなるも、世紀の誤訳なり。『復活の省察』前巻にて指摘せしとおりなり。)

   御声こそパウロ反芻せる如く「我もはやなし生くるや主ぞ」(備考:ガラテヤ2・20。復活の内容理解において、ヨハネ21・15とガラテヤ2・20は完全に合致せるなり。そのこと理解せぬ者、復活の福音としての基督教以前なり。誤訳教は、誠、基督教以前なり!然るに、世紀の恐るべき誤訳を「公的に採用」せる邦語聖書は、聖書の真理を冒涜せるものなりと、日ノ本の基督教はいかでや思はざるや。)

   かくてこそ御友御声下りたり「わが羊飼へ」宇宙命法

   命法やありてこそなり文明や天になる如地にも成す事   (備考:マタイ6・10)

   御友共天昇りてや地に下り交互関係尽くすべきぞや
(備考:それ復活形而上学なり。ホ氏の言ふ"Reciprocal Relation";"The great companion--the fellow-sufferer who understands"を注視されよ:PR, 351)

   御友のぞ福音誠麗しや我もはや実に生くるなし主ぞ



昨日は「こどもの日」で神戸・相楽園にでかけました。

相楽園の「つつじ遊山」は有名ですが、ドーダンツツジキリシマツツジ、そしてヒラドツツジは過ぎた感じで、これからサツキツツジが見ごろになります。

ちょうどこの日まで、神戸山草会の主催する「春の山野草展」が開かれていて、賑わっていました。可憐な草花が、ハッサム邸前広場に並べられていました。



この日は知り合いたちの主催する「尺八・三絃・筝による邦楽ライブ」が、園内の「旧小寺家厩舎」(重要文化財のこのうまやはただいま屋根の点検中でしたが)で開催され超満員、見事な演奏に聴き入りました。



園内の写真は次回にUPいたします。