延原時行歌集「命輝く」(第2131回)(甲子園球場での野球観戦)

                     

        延原時行歌集「命輝く」(第2131回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(210−10) 復活一周年の歌、イースタースマイルの歌、次書の歌、新たにぞの歌、今にしての歌、一周活嬉しやの歌、頭皮厚しの歌、箴言修行の歌、変貌の歌、どうもぞやの歌、夜もすがらの歌、ほのぼのとの歌、一日はの歌、新たにぞの歌、驚きぬの歌、笑みひらけの歌、思へばやの歌、我妻やの歌、我もしもの歌、友よとぞの歌、驚きぬの歌、入来歓喜の歌、命笑みの歌、箴言見事の歌、佳しの歌(2015年3月11〜20日)。

    3月20
             命笑みの歌四首

   命がぞ今生だけのものならば妻の絶後は如何に悲しき

   さりながらこれ打ち消すや絶後笑み妻が口より零れ往く見よ

   かかること在り得べきかや思へども在るや現にも如何に嬉しき

   笑み見ればこれ宇宙のぞ笑み示す父子ひらけこそ一切待てる

             箴言見事の歌五首

   我妻や大怪我の後気を吐きぬ箴言修行鬼気迫る様

   第七条麗しきなりこの叡知生死涅槃の英文見事
(備考:第七条是なり:”I am living in the secular world; and yet I am blessed by the sacred world. Is this strange? No, not at all. It is quite normal in Japan because Japanese society is very much influenced by the Buddist wisdom: samsara is nirvana.”)

   怪我なくばこの見事なる箴言やけっして生まることなかるべし

   怪我の中祝福しかと見し妻や生死涅槃の箴言詠ふ

   これ正に絶後笑み増し先駆けぞ徹底的の逆説の幸

             佳しの歌二首

   昨夜妻夢にいきいき現れぬノーちゃんや佳しこれ以上なし

   友ありて「デニス英語の魅力」をば贈り給ひぬbold with wit and smile佳し(備考:中村義実敬和学園大学教授より『デニス英語の魅力――血の通った英語を読み解く』大学教育出版、有難し)

          ♯              ♯

今朝も上の「3月20日」の歌に加えて「今日の歌」のうち次の十首を収めます。

           〇(5月5日)神表現の歌十首

   神表現成す人やこそ御友とぞ覚るや嬉し随順の道(備考:ヨハネ15・15、熟読参照:「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」)

   神表現成すや規定と述ぶる人恩師ありてぞ己が事とす(備考:『純粋神人学序説』273頁、熟読参照:「純粋に神人学的に考える人間は、したがって、自分自身を一つの存在者として知っている。この存在者は一方では、絶対的に偶然的であり、あらゆる歴史的形態を持った規定から自由であり、他方ではしかし、何よりもまず、そのようなもろもろの規定とは比較にならないほど厳しい唯一の神の規定、すなわち人間は、まさしくはじめから終りまで、このような偶然的な存在者として自分自身の生涯において生ける神ご自身を表現すべきであるという、唯一の神の規定の下に立っているのである。このようなものとしての人間は、たとえ苛酷な歴史的状況にあっても、たえず希望に満ちている。」この文章は独特なり。人間の一般的規定「人間は神表現をなすべきなり」を述べつつも、それを充足するは「一つの存在者なる自分自身(即ち哲学者滝沢克己)なり」と言ふなり)

   神表現なすぞ規定にありとてもさなぬ人の身「友よ」に随喜
(備考:これ我が「友よ」の神学の境涯なり。神表現をなすべきなるも、なし得ぬ無明の身見出すも、御友在りて「友よ、御神の事は我すべて聴きし事汝に告げん。」と言ひ給ふ故に、神学び成すなり。我が神表現は、その故に、この我の感謝の自己表現なり。これ絶後に死滅の底より神称ふる笑み浮かべし我妻の「絶後笑み増し」の境涯と一般なり。感謝すべきかな)

   御友さま我が底にぞや汝在りて我叫ぶとき汝叫び給ふ

   かくてこそ汝が叫びをば御神聴き汝も我もや挙げ給ふなり

   人生やその真実や復活ぞ御友と共に往くや嬉しや

   この道や己なし得ぬ神表現御友成す故「友よ」道言ふ

   我妻も絶後笑み増し往けるはぞ岸辺の主より御声ありてぞ

   この宇宙「友よ」の御声満ち満ちて如何な不幸も岸辺の主共

   我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す   (備考:復唱。この「底」「御友」なり)


補記 「今日の歌」の次の三首を加えます。

          〇(5月5日)我やしもの歌三首

   我やしも二十代にて「何ぞ我?」学びしもその答へをぞ今に学ぶや
(備考:「何ぞ我を?」なる説教=拙著『無者のための福音――プロテスタント原理の再吟味を媒介に』福岡・創言社、1990年=元々個人誌『雄鹿』第3号、1964年11月に掲載せしものなり。主イエス十字架上に「何ぞ我を?」と叫びし時、我の《根底的我》と成り給ひしなり、との覚り我得しもの書けり。「何ぞ我を?」の理解に関して、和解論におけるカール・バルトの未だ概念性の段階にとどまるを抜きて、「親鸞一人」に学びて《根底的我》に至りしなり。かくて我、受肉《Menschwerdung》を「我に成ること」《Ichwerdung》と捉へしなり。而してこれ、イエスの生涯の極点、十字架上にて、「復活への助走」なりしイエスの生への随順が、「復活への発条」に至りたるなり)

   我妻や驚愕のぞや驚愕の絶後笑み増す姿見し我

   我妻や笑み増す姿先駆けて御友御父の御許飛翔す 



今日は「こどもの日」、爽やかな五月晴れの朝です。暦の上では明日は「立夏」、今日は春の最後ということでしょうか。

昨日は朝からあいにくの雨模様で、前から特別のチケットを戴いていた甲子園の野球観戦を危ぶんでおりました。とこそがなんと、朝の予報に反して、甲子園は時折暑いほどの日照りもある、絶好の観戦日和にめぐまれました。

背もたれのある贅沢な座席も初体験でしたが、このたびもまた、甲子園をたっぷりと満喫してきました。

上の写真は、阪神甲子園の駅舎が一新されて、狭かったホームが広がり、そこに大きなドームが据えられている、新しい風景です。

また、以前から設けられていたスペースですが「車椅子観戦席」も目の前にあり、そこも満席でした。

この季節は、暑くもなく寒くもなく、野球観戦にはいちばんいい季節ですね。




甲子園の御馴染みの風船飛ばし・・・



中学生時代、野球部に入って玉ひろいとマネージャーをした経験を持つボクにとって、毎年春と夏、甲子園球場で、高校野球の球児たちを外野で観戦することをたのしみにしていますが、こうしてときおり、プロ野球の観戦をさせてもらうのも、ありがい経験です。