延原時行歌集「命輝く」(第2124回)(須磨離宮公園の蓮池など)

                   

        延原時行歌集「命輝く」(第2124回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(210−3)
復活一周年の歌、イースタースマイルの歌、次書の歌、新たにぞの歌、今にしての歌、一周活嬉しやの歌、頭皮厚しの歌、箴言修行の歌、変貌の歌、どうもぞやの歌、夜もすがらの歌、ほのぼのとの歌、一日はの歌、新たにぞの歌、驚きぬの歌、笑みひらけの歌、思へばやの歌、我妻やの歌、我もしもの歌、友よとぞの歌、驚きぬの歌、入来歓喜の歌、命笑みの歌、箴言見事の歌、佳しの歌(2015年3月11〜20日)。

    3月13日
            箴言修行の歌三首

   我が著述一生事なる妻や見て箴言励む決心やなる

   箴言のわざこそありて妻人生張りのある道拓きしを笑む

   我妻や絶後笑み増し往くほどに箴言修行喜びてこそ

        ♯              ♯

今朝も上の「3月13日」の歌に加えて最新の「今日の歌」を収めます。昨日に続く「延原短歌神学」の独自の「形而上学日記」の妙です。

        〇(4月28日)恩師最晩年の信の歌

   最晩年恩師イエスは父からや「空即是色」なりと言ひたり(備考:我への書簡1984年6月14日付の中にてなり:「人間イエスは、仏教に色即是空 空即是色といはれるその色の中の一つとして「空」そのものを(ふつういう意味の「神」などといふものは全然介入する余地なしに!)「父」と呼んだのではないでせうか(絶対の裏からいふと、空そのものの、直接の、色としての自己表現)?私のばあいは、この即=即非=不可逆の一点*への覚醒、何よりもまずただそれだけを西田、バルト両先生の導きに負ふてゐるのです。(*この一点はふつうにいふ「キリスト教的」宗教的な情念と「仏教的」・哲学的な思弁が一挙に吹き飛ばされる処です。))

   空とはぞ父子ひらけとぞ取るならばひらけの受肉御友なりけり
(備考:我父を空そのものでなく、空の霊格化と取るなり。空そのものは父子ひらけ[ヨハネ1・1・第二項:「ロゴスは神と共(pros ton theon)なりき。」]なり)

   恩師死の十二日前この発言西田バルトを通底や空(=父)(備考:これ両師を一貫するものの滝沢による自証なり。重要なり。滝沢命の思想なり)

   滝沢に空なる父や即イエス成程縛る非ざるや如

   我にとり空即是「色」御友なり中間底に脈々と生く(備考:恩師史的・具体的「中間底」を純粋神人学の「本来の内容」(空)に容れざりしなるも、空を空ずる趣にてなり。『純粋神人学序説]272頁、参考)

             跡ぞ麗しの歌七首

   日ノ本に神学ぶ道ありとせば恩師思索の跡ぞ麗し

   麗しと我言うやそれ(誠にや)創造的の批判ゆるせば

   滝沢の否定的なる表現を躍動的に御友とぞ読む(備考:滝沢「イエスに束縛されない」と言ふは何故?その答えこれなり:「神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できなりのである。」『純粋神人学序説』272頁、参照。今、こう書けば如何:「神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在(すなわち、太初のロゴスがそれである「人間存在」)の躍動的受肉こそが、特殊的、具体的にして史的な形態としてこの世界に現出するのである。それを我らは、《父から聴いた全てを君たちに伝えた故に、君たちを私は友と呼ぶ。》と言う御友としてお迎えするのだ」。これぞ、恩師純粋神人学の、我が創造的批判的展開なるなり)

   滝沢の神ご自身ぞ「父子ひらけ」表現点ぞ「太初言」なり(備考:我の言ふ「神性」「父子ひらけ」滝沢「神ご自身」と表記すること常なりき)

   太初言人間存在成してこそそれ離れざるイエス出でたり(備考:ここに滝沢哲学における三段階生まれしなり:すなわち、「神ご自身」→「表現点(太初言)なる人間存在」→「それ離れざるイエス」なり)

   滝沢の中間底や「無し」言ふの真意ひたすら「言離るれば」

   かくてこそ言離れざる中間底誠我言ふ御友なりけり
(備考:御友「父から聴きし事を告ぐ」(超越起源)ことなしに「友よ」(中間底)と我らに呼び掛くることなし、と言ふことと、滝沢の主旨一般なり)

補記

ただいま「今日の歌」に次の一首が加わりましたので、補記いたします。

         〇(4月28日)我やなすの歌一首

   我やなす短歌神学いと楽しマルセルの如日々思索(備考:ガブリエル・マルセルの『形而上学日記』の日録風の形而上学的神学こぞ我が狙い、わが理想なり。誠思索は一歩一歩と!)


昨日はある「大事典」の一項目の執筆途中で大きな壁を越えることができたよい一日でした。尋ねていることが解けてゆく歓びはアリガタイことですね。

上の写真は「須磨離宮公園」の続きで、ここは「蓮池」です。大きなコイたちがいまはハスの根っこに隠れてもごもごしています。こういう景色ははじめて目にしました。

園内のチューリップなども添えて置きます。