延原時行歌集「命輝く」(第2121回)(清流の「新生田川」の水辺で)

                    

        延原時行歌集「命輝く」(第2121回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(209−10)悲喜世界の歌、旨としてこその歌、命懸けたるの歌、あとがきの歌、変貌の歌、安しの歌、箴言修行の歌、主の祈りの歌、箴言第十二条の歌、歌の歌、往くの歌、華の歌、今日の日の歌、脱稿の歌、箴言一途の歌、一書成る時の歌、福音街道の歌、ふと思ひの歌、しみじみとの歌、歌とはぞの歌、尊しの歌、蓋然性か笑みかの歌、アバ父の歌、復活の解の歌、有難しの歌、一心の歌、思へばやの歌。(2015年3月1日〜10日)

    3月10日
             アバ父の歌十首

   その晩年恩師イエスのアバ父と呼び給ひしを空とせるなり
   (備考:我への書簡にてなり)

   而してや空即是色これぞイエスかく示してや御文来たりぬ

   我これに天父空には非ざると答へしなるも喜ばれずや

   天父はや父子ひらけのぞ一極ぞ他の一極や御子と我言ふ

   従ひてアバ父とぞの祈りはや父子ひらけをぞ通じての歌

   主イエスがや天にまします父よとぞ祈り示すは空(くう)にある父

   而してや空とは誠父子ひらけ空即是色ひらけ受肉

   ひらけとは「神と共なるロゴス」なり空即是色ロゴス受肉ぞ   (備考:ヨハネ福音書1章1節第二項、熟読参照)

   アバ父とイエス祈りし実にもぞや天上ひらけ在りてこそなり

   主イエスがぞアバ父と呼ぶ理は色即是空通じての事(備考:即ちイエスが「父子ひらけ=神と共なるロゴス」を自覚し給ふことにおいてなり。その時父への祈りあり。この構造ヨハネ17・5に顕著なり:「父よ、世が造れれる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい」。この文言をヨハネ1・1・第二項の観点から読めば、「御前」とは「神と共」[pros ton theon]の事なり。「みそばで持っていた栄光」も然り。「輝かす」とは、「世に輝かす」ことなり、復活なり。復活「ひらけにひらけること」なり)

             復活の解の歌五首

   復活や思ひ出天父奉献を前提せずば成り立たぬ筋

   何故ならば宇宙人生過去全て天父許にて再現ぞ核
(備考:かかる観方、Whiteheadとその弟子Hartshorneの、The Consequent Narture of Godの神論には、あるなり)

   窮極のCGこそや天父許在りて映すや過去全てなり(備考:CG=Computer Graphics:そもそもやCGなるものが発案展開さるるこそ、宇宙の復活構造に依るなり。その地上的反映Abbildなり。復活信ぜぬ人、復活の反映は信ずとは、面白き現象なり)

   これこそや我妻笑みて往きてこそ復活省察示したる解 

   笑み往くはなべて失せぬや宇宙にぞ信頼満腔喜びてこそ

             有難しの歌五首

   理解ある友の御文や有難し短歌神学「哲学ぞ成る」(備考:敬和学園大学名誉教授浅野幸穂先生御芳書3月1日付、深謝無尽!:「拝復 二月八日付の優渥なるお手紙とご前著『あなたにいちばん近い御方は誰ですか――妻と学ぶ「ラザロとイエスの物語」』、最近のご歌集『命輝く』(二〇六)、(二〇七)を一括してご恵投賜わったまま、御礼も申上げず月が変ってしまいました。失礼の段、幾重にもお詫び申し上げます。
 少々裏話を申しますと、老来の身に今冬の東京の寒さ(御地の方々の失笑を買うと存じますが)が響き、俗事も含めた日程が日延べを続けている状況があります。
 その中で「命輝く」の方は、以前からの、先生の御作を短歌を手がかりに読み解くという方法で一読させて頂きました。最初に思いがけず「理解命歓びの歌四首」にぶつかり、とても「理解」には達しない学殖浅い身を面映ゆい思いで省みながらのことですが。ところが御著書『あなたにいちばん近い御方は誰ですか』の方は、「はしがき」で先生のご構想についておぼろげに見当を付けさせて頂いた程のところです。
 そこではなはだ失礼千万なことですが、今は、貴重な先生の御作をご恵投頂きながら、なお読了には時日を要することを含め、小生の現況をご報告して、お礼に代えさせて頂きます。
 ただ一点、前回分と併せて今回気付いたこととして、寸感をもうしあげますと、先生における短歌が「哲学的神学」を標榜される先生の主要な学問的方法ではないかという点です。以前から読む側の小生が短歌を通して先生の立論を読み取ろうとしているのは、小生自身の文学指向からかと思っていましたのは迂闊な話で、実は書き手の先生が自覚的にご自身の方法の骨格として歌瞑想(校正の歌十三首)の段階から発想―展開ー構成―論証と一貫していられ、説教の方法だけでなく哲学の方法ではないか、という点です。皮相な見方、半可通の類と自覚しておりますが、ご叱正下されば幸いに存じます。
 季節が移って春めいたものも感じますが、なお油断はなりません。どうかご自愛の上、健筆を揮い下さいますよう。   敬具
 二〇一五年三月一日    浅野幸穂
 延原時行先生 侍史」

   歌詠みて一歩や一歩進み行く我が思索をぞ辿り給ふとは

   我にとり妻絶後のぞ笑みこそは父子ひらけにぞひらけ往く幸

   此度のぞ「復活省察」神学を味読さる方頭下がりぬ

   妻と我命を賭けて神宇宙称へ詠まむぞ心意気なる

             一心の歌七首

   今朝もまた雪胸に降る深々と昨夜作りし歌瞑想す

   病苦中箴言修行妻と我せざればかくも一心やなき

   何が良し何が悪しとは言ひ難しされど心一つの妹背は佳しや

   本作る父さんやって言ひし妻一つ心に懸けたるやこそ

   笑み妻を置きて我のみ世に知らるなどと言ふ事何嬉しきや

   我妻や絶後笑み増す不思議こそ一本にてや詠ひ行かんも

   それでこそ心一つの妹背のぞ幸や伝ふる歓びやあり   (備考:なあ、ノーちゃん。嬉しい嬉しい、父さん)

             思へばやの歌四首

   思へばや恩師哲学我はぞや今も練磨に余念なきなり

   さぞかしや先生天に苦笑あり延原君は今も手紙か

   我はしも復活世界住するや果敢無きこの世住するやなし

   歌と言ふものはこの世を超へてぞや恩師哲学猶掘りにけり

        ♯               ♯

今朝も上の「3月10日」の歌に加えて昨日の歌より次の五首を収めます。

        〇(4月24日)「友よ」神学の歌五首

   主イエスがぞ「友よ」と呼ぶや我らをぞ僕にさせぬ決意ありたり

   滝沢が嫌いぬきたる従僕観主イエスにやそも全く無かりき

   さらばとて恩師「友よ」と呼ぶイエス悟りてあるや明言ぞなし

   主イエスはぞ神表現を成しつつや汝も然りと見るや友垣(備考:これ滝沢の「イエスに束縛されぬ」観方より出ずること可能なる立場なるも、滝沢に明言無し。滝沢の表現神学は、以下の如し:「純粋に神人学的に考える人間は、したがって、自分自身を一つの存在者と知っている。この存在者は一方では、絶対的に偶然的であり、あらゆる歴史的形態を持った規定から自由であり、他方ではしかし、何よりもまず、そのようなもろもろの規定とは比較にならないほど厳しい、唯一の神の規定、すなわち人間は、まさしくはじめから終りまで、このような偶然的な存在者として自分自身の生涯において生ける神ご自身を表現すべきであるという、唯一の神の規定の下に立っているのである。このようなものとして人間は、たとえ苛酷な歴史的状況にあっても、たえず希望に満ちている。」『純粋神人学序説』福岡・創言社、1988年、273頁)

   我妻や絶後笑み増し岸辺主と往くや幸なり友飛翔すや


昨日は賀川豊彦研究に打ち込んでおられる御方が新潟・長岡から来神されて面談を望まれ、賀川記念館ミュージアムで2時間ほど懇談させていただきました。日本における「看護婦ミッション」の開拓的な研究で注目され、近く東京での御講演の草稿を拝見しながら、興味そそられる主題に、これまで長期連載してきた「吉田源治郎の四貫島セツルメント」のブログがいくらかお役にたったようで、新たな資料や関係著作を提供させていただきました。嬉しい新しいお出合いでした。

上の写真は、布引から流れる清流「新生田川」のいまです。水辺まで降りて眺めました。「生田川公園」の写真と賀川記念館の玄関を収めます。