延原時行歌集「命輝く」(第2111回)(「神戸・妙法寺川の桜)

                  

       延原時行歌集「命輝く」(第2111回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(208−8)妻ぽつりの歌、歌こそはの歌、復活歓喜の歌、ひらけ宇宙の歌、箴言第十条の歌、天が下時や在りの歌、嬉しもの歌、はての歌、箴言第十一条の歌、このところの歌、今朝の歌、変貌論の時代の歌、頭下がりぬの歌三首――復活省察物語の講評に就きて、驚きぬの歌、笑みと雪の歌、所得しの歌、新文明の調べの歌、一つ心の歌、主友なるの幸の歌。(2015年2月21〜28日)

    2月28日
            一つ心の歌六

   我妻や最高の幸言ひし時思ひ出天父奉献期せし

   「父さんは皆やって呉れる」言ひし時迸りたる妻が心よ

   かく詠ふ我が心にぞ歓喜あり春の陽の如輝きにけり

   人生に別れありとぞ人言ふも我らが別れ心一つに

   従ひて別れにしてぞ別れなし永久にあるもの一つ心ぞ

   不思議なる一つ心やいと楽し天地に在りて本作りなす
   (備考:なあ、ノーちゃん。そやで、父さん)

           主友なるの幸の歌八首

   我らが主友と呼びかくことほどに嬉しき事や世にぞあるなし
   (備考:ヨハネ福音書15章15節、熟読参照)

   友なれば岸辺の主とぞ共にぞや父子ひらけまで昇り往く幸

   かくなればこの御方や窮極に待ちつ道中同行二人(備考:どうぎょうににん=元、修行者空海に助けられお遍路往くの意なり)

   縛られず言ふ人もありされど我同行二人有難くもや

   昔妻巨人と手をぞ繋ぎてや歩みし夢を見しとや言へり

   妻の言ふ巨人御神みすがたよ心満たされ歩み往きしと(備考:これ我妻の宗教的原体験なりとの由。「巨人がなあ、父さん、手つないで歩いてくれはってん、うれしかったわあ」「そうか、よかったなあ、ノーちゃん」)

   巨きなる御方とぞや歩みたる妻原体験聴くや嬉しも

   汝はしも原体験やさながらに岸辺の主とぞ笑み往きしそも

       ♯               ♯

今朝も上の「2月28日」の歌に加えて、昨日大きな進展のあった歓びの歌を詠った「今日の歌」より次の六首を収めます。昨夜もこの歌が溢れ出てくるお話を分かりやすくお電話で聴かせていただきました。

        〇(4月15日)進境やいざの歌六

   年来の至誠心のぞ神学に友よのテーゼ豊潤化生む
(備考:我が至誠心の神学、これ自然神学なるも、今、「友よ」のテーゼを加ふなら、豊潤化生むべし。豊潤化とは、受肉神学なるべし)

   父よりぞ聴きし全てを汝らに知らせたる故友と呼ぶなり
(備考:ヨハネ15・15、熟読参照。弟子達を主イエス「友と」呼び給ふとは、受肉神学の基本構造なり。その根源、「父より聴きし全てを弟子達に伝えたること」にあるなり。これ重要なり。この根源的要因なくば、キリスト教容易にヒューマニズムに転落すべし、近代キリスト教の堕落示せる如く。イエスのメッセージの特徴は、「父から聴きし処」の弟子達への伝達、にあるなり。これが、単に、イエスの弟子達へのメッセージ、なるならば、容易に「イエスヒューマニズム」に転落すべし。イエスのメッセージが、「父子ひらけからのメッセージ」なる故にこそ、このメッセージ復活への招請を含むものなり。滝沢が「イエスに導かれ、援けられるが、束縛されない」(『純粋神人学序説』272頁)と言ふ時、イエスのメッセージに含まれたる「復活への招請」が切り落とされたるなり。我々は「イエスのメッセージ」の超越的発源をよくよく注意すべきなり。滝沢の場合は、「イエスに束縛されぬ」と言ひつつ、超越的発源は「インマヌエルの原事実に向かう」(同頁)という言辞に保持しておるなり。近代キリスト教は、一切の超越的発源を「イエスのメッセージ」よりそぎ落とすため、全くのヒューマニズムへの頽落あり。これヨハネ福音書21章15節の「この人達のするより我を愛するか。」との誤訳(聖書協会訳、新共同訳)が示しおるものなり。拙訳「これらの物(注。舟や網や漁業一般、延いては宇宙の諸多性)を一切脱却して、それらよりも、《我》[アブラハムの生まれ出ずるより先に在る我・宇宙の中心]を愛するか。」の正統なるは、イエスのメッセージの超越的発源を明示せるにあり。心すべき点なり)

   豊潤化和解論とぞ名づくべし神空至誠子神従順(備考:受肉神学、バルトに倣ひて、和解論と言ふならば、これを今新たに含むこと我が至誠心の神学の豊潤化なり。その構造や、神や空に至誠なり、と(我が至誠心の神学を維持するべく)言ひつつ、なおさらに、(受肉神学を形成すべく)「子神に従順なり」と付言するなり。かくて、自然神学なる我が「至誠心の神学」の内に、啓示神学の内容「神の子の従順」(der Gehorsam des Sohnes Gottes, Karl Barth)を含むに至るなり。これ豊潤化ならずや)

   而してや御友神見て命じ給ふ「神至誠故汝至誠たれ」(備考:マタイ5・48、熟読参照。受肉神学の内容や、今や、「神至誠なる如く、汝ら至誠たれ」」となるに至れり。このテーゼの前半は、至誠心の神学通り、神の空への至誠を言ふものなり。されど、「(主イエスが)神を見て、人に語る」受肉神学の二段階的特徴が加味されたるなり)

   ここにぞや宇宙中心御友のぞ見てや命ずる交互職出ず(備考:「父を見て、弟子達に命ずる」受肉神学の二段階的特徴、「天と地」の交互和解を得させる「基督職」(宇宙の中心)として、現成するなり。バルトが「和解」と呼ぶもの、ホワイトヘッドは、形而上学的に、「交互関係」《Reciprocal Relation》[PR, 351]と呼称するも、同一事態を指すなり。間違うべからざる点なり)

   これぞこそひらけ宇宙の豊潤化至誠神学進境やいざ(備考:かくてこそ、父子ひらけへと「ひらけよ」との命出でしなり。これ復活への招請発現したることなり。我が至誠心の神学にてや、一般に「至誠たれ」との命法ありたるも、今や、受肉の神学にてや、命法「父子ひらけへとひらけ往け」との復活への招請の形成したるなり。至誠心の神学の内に受肉の神学を組み込みたる故にこそ、今や、「復活への招請」への道ひらきたるなり。これ我新著『復活の省察 [前巻]――妻と歌う:生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ』にて明示せる点にして、そこに我が進境あるなり。いざ往かん)


このところ不安定な天候が続いています。強風もあって洗濯物も部屋の中です。

雨の多い日々ですが、今年はご近所の桜など、けっこうたくさん目に刻んできました。まだまだ今年の桜は残っていますが、本日の写真は、昨日に続いて「神戸・妙法寺川の桜」の景色を収めます。4月8日のものです。桜は何度見てもいいですね。