延原時行歌集「命輝く」(第2110回)(6日前の「神戸・妙法寺川の桜」)

                  

        延原時行歌集「命輝く」(第2110回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(208−7)
妻ぽつりの歌、歌こそはの歌、復活歓喜の歌、ひらけ宇宙の歌、箴言第十条の歌、天が下時や在りの歌、嬉しもの歌、はての歌、箴言第十一条の歌、このところの歌、今朝の歌、変貌論の時代の歌、頭下がりぬの歌三首――復活省察物語の講評に就きて、驚きぬの歌、笑みと雪の歌、所得しの歌、新文明の調べの歌、一つ心の歌、主友なるの幸の歌。(2015年2月21〜28日)

    2月27日
            笑みと雪の歌三首

   我妻や絶後笑み増し往きし時我が心にや雪ぞ降りける

   恵み雪暖かき雪歓びの音信やあり妻や笑みつつ

   かかる事在り得べきかと世の人や訝るならむ事実や事実

             所得しの歌十首

   熱誠の我が友みごとテキスト化我がドスト稿なし給へしや
(備考:『理想』No. 459, 1971年8月号『ドストエフスキー特集』入選論文「『罪と罰』における思想の機能について」を鳥飼慶陽師一晩のうちにテキスト化なし給へり。実に実に驚きぬ)

   かくてぞや変貌論の第二章完備せるなり如何に嬉しき

   ドスト稿四十三年昔のや努力今頃報われにけり

   かかること同志社後輩ありてこそ成れる美技とは有難きかな

   今の時変貌ありて文明や近代超えてかたち成すなり

   ドスト稿書きし折にやそこまでや見越すことぞや難かりしなり

   命のぞ変貌論や成りてこそドスト文学所得し如(備考:第一章「良寛最晩年の大変貌をめぐって」と第三章「神と自然の変貌ーーマルティン・ルターからカブ、滝沢、西田、ホワイトヘッドまで」の間に挟まれて「『罪と罰』における思想の機能について」所得しなり)

   命のや変貌とぞや較ぶればドスト文学今生悔悛

   新著成り今の時代に変貌の新風と我鼓吹せんかな

   近代を超克せんと新文明陣痛始む変貌の時

           新文明の調べの歌十二首

   昨日もジュンク堂をば経巡りて我らが一書見(まみ)へ往きたり

   笑みの書や見ゆるや佳しジュンク堂新文明の音ぞ聴こゆる

   新文明近代超ゆる調べあり復活省察その初めぞや

   近代は産業文明石油をぞ掘りに掘りてや枯渇寸前

   のみならず大戦をぞや原爆で終らしめては冷戦に入る

   やがてぞや米ソ冷戦終へし後回基たたかひ熾烈の極み

   今生を今生のため鎬をば削りゆく世や的無きの今

   復活や永久の的なりこの的がありてこそなり今生目覚む

   今生や気付かば何や復活の助走なるなり平安やあり

   恩師のぞバルトに伝ふ教会の壁の外なる調べ麗し
(備考:此度の書『カール・バルト滝沢克己往復書簡:1934−1968』東京・新教出版社、2014年の白眉のページこれなり:「キリスト者であるということは、たしかにただの一人の人間として、喜んで他者と共に、また他者のために生きるということ以上でも以下でもありません。しかし、これは私たちにとってこの世では何と難しくて稀なことか、否、まったく不可能なことである、――存在論的にすでに、したがってまた実践的にも理論的にもまったく不可能であるーーということが今私には分かります。それが可能なのは、ただ、真の三一の神が私たちと共にい給うことによってなのです。すなわち、あそこであの時に「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」、この地上にイエスとして現れ、今ここで私たちと共にい給う、「真の神・真の人」、キリスト、神の子が、私たちの存在と働きに永遠に先立ち、私たちの罪を赦し、私たちを担い、慰め、勇気づけ、警められる、ということによってなのです。私は、もっとも深い所において今日でもヨーロッパ哲学の精神的雰囲気とはまったく別な所で育った日本人として、同じキリストが私たちの旧い先祖においてもはたらいていたということを、ほてんど疑うことができません。それは、彼らが自然を敬い、単純にかつ自由に生きようとしたからなのです。私の恩師、故西田先生は、昔の禅仏教にある次のような短詩をたいへん好んで引用されました。
  億劫相別レテ須臾モ離レズ
  尽日相対シテ刹那も対セズ
  此ノ理人々是レ有リ
 私の翻訳はたいへん拙いのですが、しかし自ずと「イエス・キリスト」を思い起こさせるのではないでしょうか。この短詩が本来表現しようとしていることを、それ以外の仕方で明らかに理解し得るでしょうか。もちろん、この短詩をことさらキリスト教会の聖典として主張することなど問題にはなりません。私はたしかに個人的に二五年前の自分の経験からですが、真の人間である「ナザレのイエス」をも含むイスラエルの民の歴史ほど、したがって、彼の唯一無比の記述である旧約・新約聖書ほど、唯一の真の神の言葉についての驚くほど簡潔で誤解の余地なく明確な証言は、この世界に他には存在しないと信じます。絶対的に独自的、実在的、不可逆的な神と人間の関係が、この地上においては、あそこにおけるほど明確に自らを啓示することはありませんでした。したがって私たちはほとんどの場合、聖書を通してもっともたやすく、もっとも確実に、あのアルキメデスの一点「インマヌエル」に、すべての人間と被造物に共通の基盤に到来する神の国に導かれることができるのです。このことはわが国では今日、小説家の「椎名麟三」において典型的に起こっていますし、しかし私もまた、一度ならず自分の学生たちとの関係で、感謝と驚きをもって経験していることなのです。ただ私はこの事態を起こるがままにしておきます。そして、ルカ福音書二二章二四節におけるイエスの弟子たちのように、「どちらの方が偉いか」といいうあの子どもじみた議論をしたいとは思っていません。というのは――先生も繰り返し警告しておられますようにーー聖書の権威は、権威が聖書に正しく属している限り、作為的に立てられることはできないし、そうすべきではないし、またそうする必要もないからです。また、これは原理的な事柄ではあり得ず、むしろ、まったく上述の意味で歴史的・事実的な事柄であり、したがって絶対的として判断されるべき事柄ではありません。」(179−181頁))

   この調べ我や聴くなり原事実猶底に在り父子ひらけとぞ

   今やそも良寛禅師散る紅葉我妻絶後笑み往くが如
        ♯              ♯

今朝も上の「2月27日」の歌に加えて「今日の歌」より次の四首を収めます。

         〇(4月14日)我妻やの歌四首

   我妻や浅野先生御文こそいと真摯なる有難きかな

   御自分を無信仰者と言はるるも事柄見るや曇りなき眼ぞ

   誠にやいと有難き御文得し我妻の幸喩ふべきなし

   実にもぞや御文中汝活きたるや我入来を切に感ずも
昨日も今日も雨風の荒れ模様です。昨日は地元のまちづくり協議会の総会の準備にちょこっと出かけただけで、軽いジョギングも住宅一階のピロティ―でちょこっと・・・11階まで階段を上るのも、からだがぬくもります。

本日の写真は、未掲載になっている「6日前の妙法寺川の桜」です。

前に掲載した「会下山公園の桜」も「妙法寺川の桜」も、毎年弁当とビールをもってゆっくりとお花見を楽しむのですが、今年は天候不順もあって、桜見物だけで終わってしまいました。

この日も同輩の皆さんや車いすの人たちが、今年の桜を愛でておられました。ことしも桜をたっぷりと満喫できました。

妙法寺川の桜は、須磨警察署の近くにありますが、チャリンコに乗って15分ぐらいのところにあります。